朱里エイコの死因は?「北国行きで」が大ヒット、晩年、家族を解説
朱里エイコさんの死因については、様々な憶測が飛び交っていますが、実際の真相は意外なものでした。
この記事では、朱里エイコさんの最期の様子や、亡くなる直前までの活動内容について詳しく解説していきます。
もくじ
朱里エイコとは
ここでは朱里エイコさんの経歴や活躍の概要を解説していきます。
朱里エイコの経歴
今日は #朱里エイコ さんの20回目の命日です。 https://t.co/OpDXiosXO1
— U1 (@u11976) July 31, 2024
同時にウェブサイト「Little Dynamite 朱里エイコ」を開設してから23年になりました。毎年言っていますが偶然です。https://t.co/dJMPjbEXpE pic.twitter.com/7gBBpyGTOE
朱里エイコ(しゅり エイコ )(本名:田辺栄子)さんは、1946年3月19日に北海道の札幌市で生まれます。
父はオペラ歌手、母は、舞踏家兼振付師の朱里みさをさんで、「朱里みさを舞踏団」として両親が札幌で巡業中に生まれました。
朱里さんが生まれて後、両親はまもなく離婚します。
離婚後は、東京でおばあさんに育てられます。
このおばあさんは、母親が全国や海外へ巡業している留守中に、子供の面倒を見てもらうために雇った女性で、血縁関係はありませんでしたが、朱里さんを可愛がっていたそうです。
そして母親と一緒に暮らすようになったのは、朱里さんが大きくなってからでした。
朱里エイコさんの身長は、約157㎝、体重は約45㎏、血液型はAB型です。
学歴は、目白学園高等学校を卒業しています。
高校時代は、英語が得意で、英語の弁論大会で優勝したり、英語劇で主役を演じたりしたそうです。
そして、1963年、田辺エイ子の名で、「交通戦争はイヤ」でデビューしますが、あまり売れませんでした。
1964年、日本人が海外に自由に渡航できるようになったことをきっかけに、朱里エイコさんは、18歳で単身渡米します。
そして、オーディションを受けて合格し、ラスベガスやハワイ、ニューヨークなどといった各地の一流ホテルやナイトクラブで活動します。
無名の新人として、ライバルとの競争の中で、全米ランキング上位40曲は常に歌える状態にしておくなど、厳しい環境の中、シンガーとしての実力をつけていきます。
1966年に帰国し、日生劇場でリサイタルを開き、以後、ワンマンショーやレコードを発売しますが、芳しくありませんでした。
朱里エイコさんの持ち味が生かせるほど、当時の日本のショービジネスは成熟していなかったと言われているようです。
その後、再び渡米し、1970年1月に単独でラスベガスのショーを大成功させるなど、大きな実績を積んでいきます。
「北国行きで」が大ヒット、アメリカでも成功
朱里エイコさんは、2度のアメリカ行きを経て、芸名を今の「朱里エイコ」に改名した後、日本での活動を再開して、新たな一歩を踏み出しました。
そして1972年、10作目のシングル「北国行きで」が80万枚を超える大ヒットとなり、一躍スターの座に上り詰めたのです。
その年の紅白歌合戦にも出場しました。
しかし、絶頂期の1973年に担当マネージャーとともにコンサート中に突如失踪するという前代未聞の事件を起こしてしまいます。
この騒動により芸能界での活動が困難になった朱里さんは、1975年に再びアメリカへ渡航。
ラスベガスやロサンゼルスのホテルでディナーショーの歌手として活躍し、日本では味わえない新しいエンターテインメントの世界を開拓していきました。
1976年6月には、日本人女性として初めてカーネギーホールでの公演を開きます。
このレイカルド・デュオとのジョイントリサイタルの公演は、超満員となり、大成功を収めました。
彼女の歌声は、異国の地でも多くの観客を魅了し続けたといわれています。
朱里エイコの死因とその真相
ここでは、朱里エイコさんの死因について解説していきます。
死因は虚血性心不全
朱里エイコさんの死因は「虚血性心不全」でした。
2004年7月31日の朝、東京都足立区竹の塚の自宅で永眠を迎えました。
彼女の最期は、築20年以上の都営住宅の一室で、パジャマ姿のまま枕に突っ伏した状態で発見されました。
同居していた40代の男性が異変に気付き、発見したときには既に数時間が経過していたと警察は判断しています。
事件性は認められず、自然死とされていますが、この突然の訃報は音楽界に大きな衝撃を与えました。
当時58歳(56歳という説あり)という若さでの死は、多くのファンに深い悲しみをもたらしました。
同居男性は「たあちゃん」と呼ばれる彼女の良き理解者で、最期まで寄り添った存在でした。
朱里エイコさんの死は、孤独な晩年を象徴するような形となりました。
かつては華やかなステージで輝いていた彼女が、都営住宅で静かに生涯を閉じたことは、芸能界の光と影を如実に物語っています。
最期の数年間は、経済的にも精神的にも厳しい状況にあったとされ、その生き様は多くの人々の心に深い印象を残しました。
当時の報道によると、遺体発見時の様子から、眠るように安らかな最期だったとされています。
しかし、同居男性の動揺は激しく、警察の事情聴取にも支障をきたすほどでした。
これは、彼女との深い絆を物語る一面といえるでしょう。
死因の信憑性と真相の分析
朱里エイコさんの死因は「虚血性心疾患」ですが、朱里さんは、心臓と肝臓の持病を抱えており、長年の闘病生活を送っていました。
医療関係者によると、心臓疾患と肝機能障害を併発している場合、相互に症状が悪化しやすく、特に不規則な生活習慣は命取りになると指摘しています。
警察の調べでも事件性は認められず、持病による心臓発作が直接の死因とされています。
朱里さんの闘病生活は、芸能界の厳しい現実と健康管理の重要性を私たちに教えてくれました。
若くして亡くなった朱里さんのご冥福を心よりお祈りいたします。
なお、同様の持病を抱える方は、定期的な検診と規則正しい生活習慣の維持が大切です。
朱里エイコの晩年とその影響
ここでは朱里エイコさんの晩年の様子と活動を解説していきます。
葛藤と苦悩の中での生活
1970年代初頭、日本の音楽シーンで輝かしい活躍を見せていた朱里エイコさんでしたが、思うような活躍ができていませんでした。
「北国行きで」などのヒット曲に恵まれたものの、実力があってもヒット曲がなければ、テレビに出られない日本の芸能界に疑問を持ち、実力があるのに思ったほど売れない、なぜ自分が日本人には受け入れられないのかと、葛藤しながら活動していきます。
折り悪く、1972年に交通事故に遭い、その時に頸部外傷を受け、精神的な不安定さを抱えるようになります。
翌年の1973年2月14日、福島県郡山市でのコンサート中に歌詞を間違え、失声し、そのまま楽屋から姿を消してしまいます。
失踪時に同行したマネージャーとは後に結婚生活を送りましたが、4年後に協議離婚となってしまいました。
その後、既婚男性との恋愛関係に悩み、肝臓を患って1年間の療養を余儀なくされたのです。
1983年以降の活動と変化
朱里エイコさんは、1970年代後半では、マネージャーとの結婚生活の破綻、不倫によるストレスから肝臓を患うなど、私生活の波乱が続いていました。
そして1983年に、再び失踪事件を起こしてしまいます。
1983年6月6日、1日~14日という日程で、名古屋のレストランシアター「ダンシング・ダン」に出演していた時に、約30時間失踪し舞台に穴を開けるという事件を起こし、世間を騒がせることになります。
その後、朱里エイコさんは、翌年の1984年3月、東京・赤坂にあるレストラン・シアターのコルドンブルーで、1ヶ月に渡るワンマンショーを開催しました。
チケットは完売し、公演自体は好評でしたが、初日から1週間ほどが経ったある日、朱里さんは会場に現れませんでした。
常用していた精神安定剤と、ドリンク剤の飲み合わせで異常をきたし、自宅でパニック状態になっているところを発見されたのです。
この事件で朱里エイコさんは、歌手としての信用を失ってしまいました。
1990年代に入ると、心臓と肝臓の持病で入退院を繰り返すようになり、服用していた薬の副作用で体重が全盛期の45キロから60キロ以上まで増加しました。
かつては「可愛らしさ」が魅力だった彼女も、晩年は「あの人は今」といった回顧番組への出演が主となり、芸能界の第一線からは徐々に距離を置くようになっていったのです。
朱里エイコの主なヒット曲
ここでは、朱里エイコさんの主なヒット曲を紹介していきます。
朱里エイコさんの主なヒット曲は以下の通りです。
- 「イエイエ(yeye)」(1967年)
- 「北国行きで」(1972年)
- 「恋の衝撃」(1972年)
- 「ジェット最終便」(1973年)
- 「白い小鳩」(1974年)
- 「AH SO!」(1975年)
- 「ジョーのダイヤモンド」(1977年)
- 「サムライ・ニッポン」(1978年)
「北国行きで」「ジェット最終便」で紅白出場
朱里エイコさんの代表曲といえば「北国行きで」です。
レコード80万枚を売り上げて、大ヒットしました。
この曲で朱里エイコさんは、1972年、第23回紅白歌合戦に初出場しています。
この「北国行きで」という歌は、今聴いてもいい曲ですね。
昭和歌謡の雰囲気がたっぷりと感じられる曲です。
朱里エイコさんの、パンチの効いたハスキーボイスが心地よく聴こえます。
この歌がヒットした1972年は、高度経済成長の終わりの時期で、日本の経済が安定していて、国全体が明るい雰囲気があったと思います。
私の子供時代は、その明るい昭和の雰囲気に包まれていたので、この曲を聴くと、大人も子供も明るかった幼い頃を思い出します。
また、翌年の1973年には、「ジェット最終便」で、第24回紅白歌合戦に出場しています。
この曲は「北国行きで」と同じ失恋の歌ですが、アップテンポで、ノリノリな感じの曲で、朱里さんのパンチのある歌唱が軽快に聴こえてきて、私の好きな曲の1つです。
「ジョーのダイヤモンド」「サムライ・ニッポン」などCMソングが話題に
「ジョーのダイヤモンド」は、キリンビールのCMに起用されて、話題を呼びました。
また、この曲は、1978年の第7回東京音楽祭国内大会で、ゴールデンスター賞と作曲賞を受賞しています。
「サムライ・ニッポン」は、レコードA面に英語版、B面には日本語版という形になっています。
1978年当時は、アメリカ映画「サタデー・ナイト・フィーバー」が大ヒットした影響で、ディスコブームが起こっていて、その影響を受けて作られた曲です。
この曲は「トヨタ・チェイサー」のCM曲に起用されました。
「恋の衝撃」の思い出
「恋の衝撃」は個人的に印象深い曲です。
私が子供の頃、記憶している朱里エイコさんと言えば、この「恋の衝撃」を歌う姿です。
キラキラしたスパンコールがついた、ミニ丈の真っ赤なドレスを着て、はつらつと踊りながら歌う姿を思い出します。
ある歌番組に出演されていたのですが、ひときわ輝きがあって、「かっこいいなー」、と思って観ていました。
その時に「恋の衝撃」の歌詞を覚えたので、50年以上経った今でも、「あなたが眩しい、あなたが恋しい、あの時からよ〜🎵」なんて歌えます。
子供の時に覚えたことって、忘れないものですね。
朱里エイコの家族・エピソードについて
ここでは朱里エイコさんの夫や子供、家族についてや、エピソードについて解説していきます。
夫は?子供は?
朱里エイコさんの家族は、父親は田辺信一さん(歌手の音山神一さん)、母親は田辺静枝さん(舞踏家の朱里みさをさん)、お姉さんの知佐子さんの4人家族でした。
朱里エイコさんが5歳の時に父親は亡くなったことになっていましたが、実際は生存していたそうです。
朱里エイコさんは、1974年に、マネージャーの渥美隆郎氏と結婚しています。
当時、安易な職域結婚として、芸能マスコミに叩かれたこともありましたが、朱里エイコさんにとっては、最も身近で信頼をおくパートナーと結婚したことは、自然なことでした。
ところが、結婚生活は長くは続かず、1978年に離婚しています。
しかし、離婚後も渥美氏の芸能事務所に籍を置いていた時期があるなど、元夫が朱里さんを支えていたそうです。
それから、朱里エイコさんには子供はいませんでした。
元夫、渥美氏と結婚していた時にも、2人の間に子供はいませんでした。
足(脚)に100万ドルの保険を掛けた?
現代では、芸能人が自分のパーツに保険をかけることは、話題作りとして目新しいことではありません。
しかし、朱里エイコさんが、脚に100万ドルの保険をかけていた1970年代前半では、日本では珍しいことでした。
アメリカで活躍していた朱里エイコさんは、現地のマネージャーに「プリティーな部分は強調すべきだ。あなたの場合は脚である」と助言を受けたといいます。
そこで、朱里さんの美脚に100ドルの保険が掛けられたのです。
当時、そのことは日本で話題になりましたが、体のパーツに保険をかけるというのは、馴染みがなかったので、奇抜に受け止められていました。
普通の日本人だったら、体のパーツに保険をかけることに、戸惑い、尻込みしてしまったかもしれませんが、そこは、行動力のある朱里さん、あっさり越えてしまったのかなと思います。
まとめ:朱里エイコの死因は「虚血性心不全」、昭和時代を中心にアメリカ・日本で成功した国際派歌手だった
主に1970年代に活躍した朱里エイコさん、
朱里さんは、日本では、「北国行きで」などが大ヒットし、紅白歌合戦には2回出場しています。
アメリカへは、18歳で単身で渡航し、ディナーショーなどの舞台で鍛えられて、歌とダンス、アクションでダイナミックなステージを披露し、成功を収めていました。
そんな朱里エイコさんは、アメリカ人からは、「リトル・ダイナマイト」と呼ばれていました。
(小柄な体に、それに似合わないパンチのある歌声、ダイナミックなアクション、ステージを観て、そのように評された)
しかし、1972年に交通事故に遭い、頚部を傷めてから、精神的に不安定になり、舞台に穴をあけるようになります。
その後、肝臓や心臓の病気を患い、徐々に芸能界の第一線から遠ざかっていきます。
そして、2004年7月31日の朝、東京都足立区竹の塚の自宅で永眠を迎えました。
朱里エイコさんの死因は「虚血性心不全」でした。(享年58歳)
日本とアメリカ、両国で活躍した国際派歌手の朱里エイコさん。
才能と実力を兼ね備え、その舞台は常に聴衆を虜にした素晴らしいアーティストでしたが、その実力に見合った評価がされず、不遇の音楽人生だったとも言われています。
朱里エイコさんの歌声は、今の私たちが聴いても、とても魅力的なものです。
朱里エイコさんが亡くなって、かれこれ20年以上経ちましたが、これからも彼女の歌が、私たちをハッピーにしてくれることでしょう。