范文雀の死因は?サインはVで有名、夫は寺尾聰?子供、いとこ、国籍を解説

昭和時代に日本の芸能界で活躍した女優さんの一人に、「范文雀」さんがいます。
お名前から察するに日本人ではない方ですが、私の子供の頃の人気女優さんで、憧れの存在でした。
この記事ではそんな范文雀さんの死因や活躍を中心に、夫・息子・娘・いとこなどのプライベートにも迫って解説していきます。
もくじ
范文雀(はん・ぶんじゃく)とは?
ここでは范文雀さんの経歴や女優としての活躍を大まかに解説していきます。
范文雀のプロフィール
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— 赤いTシャツの男 (@T74954433) December 27, 2023
サインはV と言えば范文雀さんですね。 pic.twitter.com/CLZEXoapv2
范文雀さんは、1948年4月15日、東京都中野区で台湾人の両親のもとに生まれました。
ちなみに、血液型はO型、身長は公表されていませんが、165cm前後だったと推測される説と、163cmという説があります。
范文雀さんの幼少期は、波乱に満ちたものでした。
5歳の時に父親が台湾へ帰国してしまい、母と兄とともに広島県の祖母の元で暮らすことになります。
祖母は広島駅前で「胡蝶園」という中華料理店を経営する裕福な女性でした。
祖母は范文雀さんだけを溺愛し、本宅で贅沢に育てた一方で、母親や兄は従業員寮での質素な生活を強いられました。
両親が東京へ戻った後も、祖母は范文雀さんを手放さず広島に留め置きました。
広島ノートルダム清心中学校に通った范文雀さんでしたが、15歳の時に祖母の元を家出し、東京の両親のもとへ戻っています。
興味深いことに、台湾人の両親を持ちながらも(国籍は台湾)、范文雀さんは中国語を話すことができませんでした。
これは、両親自身が日本育ちで、家庭内でも日本語を使用していたためと考えられます。
このような複雑な家庭環境で育った経験や、台湾にルーツを持つなど、文化的なアイデンティティの揺らぎは、彼女の芸術性を育む土壌となり、女優としての演技の深みにつながることで、独特の存在感を放つ女優としての成功につながったと考えられます。
高校卒業後は、清泉女子大学英文別科に進学。卒業後は通訳を目指して、更に上智大学外国語学部比較文化学科に進学します。
そして、上智大学在学中の、1968年に芸能界デビューを果たし、ドラマ「特別機動捜査隊」(1968年、テレビ朝日)にゲスト出演や、1969年(昭和44年)、「プレイガール」(テレビ東京)に出演、この時は芸名を「ハン・ザ・摩耶」としていました。(その後すぐに、本名の范文雀に戻しています。)
その後の、1969年にドラマ「サインはV」(TBS系列)でジュン・サンダーズ役を掴みます。
范文雀さんが演じたジュン・サンダーズは、ヒロインのチームメイトで、不治の病で亡くなる悲劇的役柄を見事に演じて、日本中から注目される若手女優となります。
「サインはV」に続いて、ドラマ「アテンションプリーズ」(1970年、TBS系列)に田村早苗役で出演し、このドラマの演技も注目されて、人気女優の地位を確実にしていきました。
その後、映画「野良猫ロック」シリーズ(1970年、長谷部安春・藤田敏八監督)などで主演して、ドラマに映画にと活躍を広げていきました。
今年がもう半分弱も終わったなんて信じられません…范文雀 pic.twitter.com/NMnIdBD89K
— OMI卍郎 (@ominotice) May 1, 2023
結婚して芸能界を引退するも離婚して復帰
こうして、所属する渡辺プロダクションの看板女優として、順風満帆な活動を続けていた范文雀さんでしたが、1973年6月、25歳の時に俳優の寺尾聰さんと結婚します。
范文雀さんは結婚を機会に、芸能界からの引退を決意し、家庭に入ります。
しかし結婚生活は長くは続かず、翌年に離婚、その後芸能界に復帰します。
復帰後は、「Gメン75」(1976〜1982年、TBS系列)や、大河ドラマ「花神」、(1977年、NHK)、映画「人間の証明」(1977年、佐藤純彌監督)、ドラマ「影の軍団Ⅳ」(1985年、関西テレビ)、海外ドラマ「ドクタークイン」(1993〜2000年、NHK)の吹き替えなど、幅広い活動を展開していきます。
そして、2002年11月、54歳という若さでその生涯を閉じるまで、常に高いプロ意識を持って演技に向き合い続けたのです。
范文雀の死因は?
ここでは范文雀さんの死因について詳しく解説していきます。
范文雀の死因は「心不全」
2002年11月5日午後1時38分、54歳という若さで范文雀さんは都内の病院で永眠しました。
死因は「心不全」で、詳細な死因は「悪性リンパ腫による心不全」とされており、この病との4年に及ぶ闘いの末、静かに永眠されたのでした。
范文雀さんの訃報は芸能界に大きな衝撃を与え、多くのファンや関係者が深い悲しみに包まれました。
1970年代から活躍し、クールビューティーな魅力で数々の名作に出演してきた彼女の突然の死は、日本の芸能界にとって大きな損失となりました。
范文雀さんが亡くなった翌月の12月7日には、所属事務所「ペガサス」代表の久万秀代さんが実行委員長となり、范文雀さんのお別れ会が、東京都千代田区霞が関のビルで行われました。
范文雀さんのお墓は、神奈川県三浦半島の先の方で、三浦霊園にあります。
海が見える静かな場所にある、洋型のお墓には「THAT’S YOUR STAGE,DEAREST REST IN PEACE」と記されてあるそうです。
范文雀の晩年、病魔との闘い
范文雀さんの公式発表された死因は「心不全」でしたが、その背景には重篤な病気との闘いがありました。
1998年頃に脇のリンパ節から「悪性リンパ腫」が発見され、約半年間の入院治療を余儀なくされたのです。
一時は小康状態となり、仕事への復帰も果たしましたが、2002年10月に再び体調を崩して再入院となります。
そして同年11月5日、54歳という若さで帰らぬ人となりました。
悪性リンパ腫は、白血球の一種であるリンパ球ががん化する血液のがんです。
初期症状として、リンパ節の腫れや発熱、寝汗、体重減少などが現れることが特徴的です。
現在では抗がん剤治療や放射線治療、分子標的薬による治療など、様々な治療法が確立されており、早期発見・早期治療で完治も期待できる病気となっています。
しかし、范文雀さんの場合は、残念ながら病状が進行し、最期は心不全を引き起こして帰らぬ人となってしまいました。
范文雀さんは闘病中も前向きな姿勢を崩さず、可能な限り仕事を続けていました。
最期まで女優としての矜持を持ち続け、ファンを励まし続けた姿は、多くの人々の心に深く刻まれています。
范文雀の主な出演作品
范文雀さんの主な出演作品は以下の通りです。
◆ドラマ
- 「プレイガール」(1969〜1970、テレビ東京)ユーミン・ダロワ役
- 「サインはV」(1969〜1970、TBS系列)ジュン・サンダース役
- 「アテンションプリーズ」(1970年 – 1971年、TBS系列)田村早苗役
- 「2丁目3番地」(1971年、日本テレビ)冴子の妹役
- 「おんな友だち」(1971年、日本テレビ)牧村ゆかり役
- 「打ち込め! 青春」(1971年、テレビ朝日)西条百合役
- 「 Gメン’75」(1976〜1982年、TBS系列)賀川陽子刑事役ほか
- 「花神」(大河ドラマ)(1977年、NHK)粟屋菊絵役
- 「愛の嵐」(1977年、日本テレビ)絹子役
- 「Gメン’82」(1982〜1983年、TBS系列)賀川陽子刑事役
- 「影の軍団IV」(1985年、関西テレビ)お才役
- 「となりの女」(1986年、TBS系列)野々木笑子役
- 「京、ふたり」(朝の連続テレビ小説)(1990〜1991年、NHK)太田昌子役
- 「予備校ブギ」(1990年、TBS)橘智恵役
- 「占有家族」(2001年、NHK)出雲栄子役
◆映画
- 「野良猫ロック」シリーズ(1970年、長谷部安春・藤田敏八監督)ユリ子・アサ子役
- 「人間の証明」(1977年、佐藤純彌監督)なおみ役
- 「ホワイト・ラブ」(1979年、藤田敏八監督)野川多恵子役
- 「マリアの胃袋」 (1990年平山秀幸監督) (いとこの余貴美子と共演)
- 「Love Letter 」(1995年、岩井俊二監督)藤井晶子役
◆舞台
- 「リヤ王」
- 「真夏の夜の夢」
◆吹き替え
- 海外ドラマ「ドクタークイン大草原の女医物語」(1993年~2000年、NHK)ジェーン・シーモアの声
「サインはV」「アテンションプリーズ」でブレイク
1969年から1970年にかけて放送されたTBS系ドラマ「サインはV」で、范文雀は不幸な生い立ちを持つハーフのアタッカー、ジュン・サンダース役を演じ、一躍スターの座を掴みました。
奥深い役柄と彼女特有の哀愁漂うルックスが見事にマッチし、最高視聴率39.3%という驚異的な数字を記録。
范文雀さんが演じたジュン・サンダースとの「X攻撃」や「稲妻落とし」などの必殺技も人気になります。
ジュンサンダースが罹患する「骨肉腫」という難病が、有名になるきっかけにもなりました。
柔道選手の活躍を描いたドラマ「柔道一直線」や、水泳選手の活躍を描いたドラマ「金メダルへのターン!」などと並び、実写スポ根ドラマの草分け的番組となりました。
今、ジュン・サンダース役の范文雀さんの当時の写真を見てみると、いかにも顔に黒いドーランか何かを塗ってます、って感じですが、私がこのドラマをリアルタイムで観ていた時は、子供だったので、本当に黒人のハーフの人だと思っていました。
范文雀さん。サインはVのジュン・サンダースである。
— TANAKA YUTAKA (@NOOS13) July 9, 2018
これですよ。この前髪クルンですよ。
世界一の美女だと、今でも思っているのである。 pic.twitter.com/dmRJHqSIZC
その後も「アテンションプリーズ」で孤独な訓練生・田村早苗を演じ、演技力の高さを見せつけています。
この「アテンションプリーズ」も女子の間で大人気のドラマでした。
当時、スチュワーデス(現在のCA)は、女の子の憧れの職業の1つで、訓練生のヒロインたちが成長して、一人前のスチュワーデスになっていく姿が素敵で夢中でドラマを観ていました。
范文雀さん演じる田村早苗は、最初は訓練生の中でも、落第した先輩訓練生だったこともあり、皆と馴染めず、浮いた存在でしたが、次第に打ち解けて、ヒロインの良き相談相手と変わっていくところが、よく演じられていました。
ここの演技でも視聴者を虜にして、人気女優になっていったんだなと思います。
范文雀の映画・テレビ・舞台の出演作品
その後も、范文雀さんは、人気女優として活躍していきます。
1971年には「おんな友だち」で主演を務め、「2丁目3番地」「打ち込め!青春」など、数々の話題作に出演。
映画でも「野良猫ロック」シリーズ3作品に主要キャストとして参加し、その存在感を示しました。
彼女の演技は常に真摯で、媚びることのない姿勢が多くのファンを魅了したのです。
1973年、俳優の寺尾聰さんと結婚し、一旦は女優を引退するも、翌年離婚して、芸能界へ復帰します。
芸能界に復帰後は、大河ドラマ「花神」、「Gメン75」、「愛の嵐」への出演、
1980年代は、「影の軍団IV」、「となりの女」などの話題作に出演、
1990年代は、NHK朝の連続テレビ小説「京、ふたり」やサスペンスなどの2時間ドラマ、映画「Love Letter」、海外ドラマ「ドクタークイン」の吹き替えなど、幅広い活動を展開しています。
そして、2002年11月、54歳という若さでその生涯を閉じるまで、常に高いプロ意識を持って演技に向き合い続けたのです。
(ちなみに、映画「Love Letter」で、ヒロインの母親役を演じた范文雀さんですが、先日、そのヒロイン役を演じた女優の中山美穂さんが、范文雀さんと同じ54歳で他界されました。
ご冥福をお祈りします。)
私の個人的な印象として、范文雀さんは、エキゾチックな雰囲気で、ミステリアスな女性のイメージが強いので、2時間ドラマ(火曜サスペンス劇場など)に范文雀さんが出演していると、サスペンスの雰囲気が盛り上がるので、嬉しかったのを記憶しています。
范文雀の夫、子供、いとこについて
ここでは范文雀さんの夫や子供、いとこなど、家族について解説していきます。
范文雀の元夫は寺尾聰
范文雀さんは、1回結婚をしています。
お相手は先にも述べました「寺尾聰」さんです。
ルビーの指環と范文雀が夫婦だった時代があった #男はつらいよ pic.twitter.com/SF58TUH1w6
— カエル岩 (@kaeruiwa1963) February 17, 2024
范文雀さんと寺尾聰さんの出会いは、1971年のテレビドラマ「2丁目3番地」(日本テレビ系列)での共演がきっかけでした。
当時、范文雀は「サインはV」で人気を博した25歳の売れっ子女優で、寺尾聰は26歳の新進気鋭の俳優として活動していました。
ここで、当時の寺尾聰さんについて少し解説します。
寺尾聰さんは、演劇界の重鎮である宇野重吉さん(当時、劇団民藝代表)の息子でしたが、偉大な父親への反発からか、1966年、グループサウンズ「ザ・サベージ」で、ベース担当としてデビュー、俳優デビューは1968年、石原裕次郎さん主演の映画、「黒部の太陽」という経歴の持ち主です。
2人が出会った時期はそれぞれに恋人がおり、范文雀は萩原健一と、寺尾聰はジュディ・オングとの関係が破局した後に交際が始まったといいます。
そして、1973年6月、2人は極秘裏に結婚。
当時の芸能界では、渡辺プロダクションの看板女優だった范文雀さんが、まだ売れっ子とは言えなかった寺尾聰さんと結婚することに批判的な声も上がっていました。
確かに、寺尾聰さんと言えば、今では、日本の芸能界で、屈指の名優と言われる大物俳優の1人として有名です。
父親である宇野重吉さんにも劣らないくらいの、素晴らしい俳優さんです。
しかし、范文雀さんと結婚した頃は、あまり売れておらず、周囲からはヤンチャな性格の若者と捉えられていたため、批判的な声が上がったのでしょう。
2人の結婚は、マスコミにも気付かれないほど密かな結婚でしたが、2ヶ月後の8月に情報が漏れ、9月には石原プロダクション代表の石原裕次郎夫妻を仲人に迎え、東京都品川区の教会で正式な結婚式を挙げています。
結婚後、范文雀さんは芸能界を引退します。
寺尾聰さんは「石原夫妻のような理想の家庭を築きたい」という強い思いを持ち、仕事に打ち込んでいきました。
しかし、その熱心な仕事ぶりが、皮肉にも夫婦のすれ違いを生む要因となってしまいます。
当時の2人は、それぞれが失恋の傷を癒やし合うように急いで結婚したため、お互いの価値観や生活スタイルを十分に理解する時間が足りなかったのかもしれません。
結果的に、范文雀さんと寺尾聰さんは、1973年6月に結婚した後、わずか1年5ヶ月で離婚となりました。
范文雀さんと寺尾聰さんとの離婚理由については、1974年11月の離婚会見で双方から異なる説明がなされました。
寺尾さんは石原裕次郎夫妻のような理想の家庭を築くため仕事に没頭し、結果として朝から晩まで不在の生活になってしまったと語っています。
一方の范文雀さんは「性格の不一致」を挙げ、最初から相容れない部分があったと説明しました。
范文雀さんは、始めの方でも述べましたが、離婚後に芸能界に復帰して、再び人気女優として活躍しました。
范文雀に娘・息子はいない?
結論から言いますと、范文雀さんには娘さんも息子さんもいません。
范文雀さんと寺尾聰さんの間には子供はいませんでした。
1973年6月から1974年11月までの1年5ヶ月という短い結婚生活の中で、子宝に恵まれることはなかったのです。
范文雀さんは離婚後、再婚することはありませんでした。
寺尾さんと離婚後、范文雀さんは、1977年、ドラマ「愛の嵐」(日本テレビ系列)で共演した、俳優の荻島真一さんと同棲生活をしており、事実婚状態でしたが、その間も子宝には恵まれませんでした。(その後、お2人は破局して結婚には至らず。)
そして、2002年11月に54歳で亡くなるまで独身を貫き、生涯子供を持つことはありませんでした。
その一方で、寺尾聰さんは離婚後、資生堂のCMで注目された元モデルで女優の、星野真弓さんと「西部警察」(テレビ朝日系列)で共演したことをきっかけに交際を開始、星野さんの妊娠を機に、結婚しています。(1980年ごろ)
この再婚で寺尾聰さんは3人の子供に恵まれ、1人の息子と2人の娘をもうけました。
寺尾家では子供たちのプライバシーを守るため、氏名や生年月日などの詳細は一切公表していません。
また、女優のシシド・カフカさんが范文雀さんの娘ではないかという噂があります。
確かに雰囲気が若い頃の范文雀さんに似ていますね。
しかし、先ほども述べたように、范文雀さんには子供はいませんでしたので、この噂は間違いということになります。
范文雀のいとこは女優の余貴美子
女優の余貴美子(よ・きみこ)さんは、范文雀さんの台湾系の血を引く従姉妹同士という関係にあります。
まるで別人レベルで変化自在な余貴美子さん、若い頃からその美しさは地元横浜元町で評判。ハマのマリアと呼ばれていたそうですよ。故・范文雀は従姉。 #新宿野戦病院 #虎に翼 pic.twitter.com/NaiLOA13Mz
— gurucchi (@gurucchi) August 9, 2024
余貴美子さんの父親は范文雀さんの母親の実弟であり、2人は8歳の年齢差がありましたが、幼少期から家族ぐるみの付き合いがあったと言われています。
特筆すべきは、二人のルーツが「客家(はっか)」と呼ばれる独自の文化とアイデンティティを持つ民族だったことです。
あるテレビ番組で余貴美子さんの家系を探る企画が放送された際に、この事実が明らかになりました。
余貴美子さんが女優を目指したきっかけは、自身より8歳年上の従姉妹である范文雀さんへの憧れだったと語っています。
范文雀さんは1970年代から数々の話題作に出演し、クールビューティな魅力で多くのファンを魅了しました。
その姿に影響を受けた余貴美子さんも、後に「シン・ゴジラ」など数々の話題作で重要な役どころを演じる実力派女優として活躍することになります。
范文雀さんは2002年に54歳という若さで他界しましたが、その演技は余貴美子さんに大きな影響を与え、芸能界における重要な指針となったのです。
まとめ:范文雀の死因は「心不全」、国籍は台湾、エキゾチックな魅力で活躍した名女優だった
范文雀さんは、台湾人の両親のもと東京都中野区で生まれた台湾国籍の人です。
5歳で父親が台湾に帰国したことをきっかけに、母と兄とともに広島の祖母の元で暮らしました。
祖母は范文雀さんだけを溺愛し、母親や兄を冷遇するという複雑な家庭環境の中で育ちました。
15歳の時に家出をして東京の両親のもとへ戻るまで、彼女は祖母の元で贅沢ながらも心の通わない日々を過ごすという状況でした。
1968年、上智大学在学中に女優デビュー、1969年の「サインはV」でジュン・サンダース役を演じて大ブレイクし、「アテンションプリーズ」など数々の話題作に出演。エキゾチックな容姿と確かな演技力で、多くの視聴者を魅了しました。
1973年、寺尾聰さんと結婚するも、翌年には離婚、結婚を機に引退した芸能界に離婚後復帰し、それ以降は独身を貫いて、ドラマ「Gメン75」や、映画「人間の証明」など話題の作品に出演、演技派女優として多くのドラマ、映画で活躍しました。
そんな范文雀さんは、2002年11月5日、54歳という若さで都内の病院で永眠しました。
死因は悪性リンパ腫による「心不全」でした。
1960年代末から活躍し、クールビューティーな魅力で、数々の名作に出演してきた范文雀さんが亡くなったのは、大変残念でなりません。
子供の頃、エキゾチックで、凛とした美しさを持つ范文雀さんに憧れていましたし、今でもこのような独特の雰囲気を持った女優さんは稀有な存在だと思います。
「サインはV」や「アテンションプリーズ」のドラマを、夢中で観ていた幼い頃の思い出と共に、私の中で范文雀さんは忘れることのできない女優さんです。
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