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児玉清の死因とは?アタック25の司会で有名、妻、息子、娘を解説

児玉清さんは、日本の芸能界において唯一無二の存在感を放った多才な俳優でした。

その真摯な仕事ぶりと謙虚な人柄は、多くの人々の心を掴みました。

この記事では、児玉清さんの芸能界での活躍とともに、その死因について解明していきます。

児玉清とは

児玉清さんとはどんな俳優さんだったのでしょうか。

児玉さんの経歴と若い頃の活躍や芸能界での足跡をたどります。

児玉清の経歴

児玉清さんは、俳優、タレント、作家など、様々な分野で活躍し、元児玉清事務所代表取締役であり、事務用品の販売・卸会社の株式会社チカダ元専務取締役だった人物です。

児玉清さん(本名:北川清)は、1934年1月1日生まれ(実際の生年月日は1933年12月26日)、現在の東京都北区出身です。

東京都立工芸高等学校を卒業後、一浪して学習院大学文学部ドイツ文学科に入学しました。

入学後は演劇部に入部、当初は道具係になりますが、当時としては身長が高かったことが理由で(178㎝)、舞台で演じることになりました。

その後、大学の1年先輩で、フランス文学科に所属の篠沢秀夫さんに推されて、篠沢さんが企画していた仏語劇である「ブリタニキュス」の主役に抜擢されます。

児玉さんはフランス語を知らなかったそうですが、見事演じ切って高い評価を得たそうです。

この演劇部の先輩だった篠沢秀夫さんは、後に学習院大学の名誉教授となり、教授時代は、昭和時代に大人気のテレビ番組「クイズダービー」(TBS系列)のレギュラー回答者などタレント活動もされていた人です。

「クイズダービー」についてはこちらの記事で詳しく紹介していますので、参考にしてください。

大学時代演劇部で活躍していたといえ、児玉清さんは、最初から役者志望だったわけではなく、学者志望で、大学卒業後は学習院大学の大学院への進学を希望していました。

しかし、大学の卒業式の当日、母親が亡くなるという悲劇に見舞われます。

そのため、急遽、進路変更を余儀なくされ、就職先を探すことになります。

そうは言っても、3月という遅い時期では就職先はなかなか決まらず、知人が応募してくれた、東宝映画、第13期ニューフェイス(新人募集)に合格して、東宝に入社します。

それから児玉清さんの俳優としての人生が始まりました。

児玉清の若い頃、芸能界での活動

児玉清さんは、1958年に東宝映画のオーディション(東宝ニューフェイス第13期)に合格して芸能界入りを果たした後、なかなか役につけず、通行人役などをして、売れない時期がありました。

映画デビューは「隠し砦の三悪人」(1958年、黒澤明監督)、映画「黒い画集 あるサラリーマンの証言」(1960年、堀川弘通監督)で森下役を演じて、徐々に役がつくようになっていきます。

映画「悪い奴ほどよく眠る」(1960年、黒澤明監督)や、映画「別れて生きるときも」(1961年、堀川弘通監督)で注目されるようになります。

1964年以降は、テレビドラマにも出演するようになり、ドラマ「ありがとう」(1970年など、TBS系列)、ドラマ「HERO」(2001年、フジテレビ)や大河ドラマ「龍馬伝」(2010年、NHK)など、数々の作品で名脇役として存在感を示しました。

1967年に東宝を退社して、フリーとなって活動の幅を広げています。

特に注目すべきは、1975年4月からスタートした「パネルクイズ アタック25」で、36年という長きにわたり司会を務め上げ、「アタックチャ~ンス!」の掛け声と知的で温厚な語り口は多くの視聴者に愛されることになります。

芸能界屈指の読書家としても知られ、NHKの書評番組「週刊ブックレビュー」の司会も担当していました。

児玉清の死因は?

ここでは、児玉清さんの死の真相について解説していきます。

児玉清の死因は「胃がん」

児玉清さんは、2011年5月16日午後0時28分、都内の病院で永眠されました。(享年77歳)

死因は「胃がん」でした。

児玉さんは、2011年2月下旬に食欲不振を訴え、3月に入って検査を受けたところ、胃がんが発見されました。

それと同時に肝臓への転移も確認され、都内の病院に入院したものの、すでに末期の状態であったため手術は叶わず、抗がん剤治療も十分に行えない状況でした。

所属事務所は当初、「肝機能障害」と公表していましたが、実際には進行性の胃がんと闘病していたことが、後に明らかになっています。

5月14日にはベッドから起き上がることができなくなり、翌15日に意識を失われました。

最期は45年以上連れ添った奥さん(79歳)と息子さん(41歳)に見守られながら、静かに旅立たれました。

闘病期間はわずか2ヶ月半という短さでしたが、最期まで仕事への強い思いを持ち続けていたと伝えられています。

医療専門家によると、胃がんの進行度や転移の状況によって予後は大きく異なり、特に肝臓への転移が確認された場合は予後不良となるケースが多いとされています。

児玉さんの場合も発見時にはすでに進行が著しく、治療の選択肢が限られていたことが、急速な病状悪化につながったと考えられます。

児玉清さんの葬儀は、東京都文京区の護国寺桂昌殿で行われ、1160人もの参列者が集まり、児玉さんの人柄と芸能界での功績を偲びました。

遺品として、病室で読もうとしていた本や趣味の切り絵の道具、友人へ配る予定だった手作りのカレンダーなどが棺に納められ、最期まで文化人としての姿勢を貫いた人生でした。

児玉清の晩年について

児玉清さんは、70歳を過ぎてからも、「パネルクイズ アタック25」の司会や、大河ドラマ「龍馬伝」での龍馬の父、坂本八平役を演じるなど、順調な活躍ぶりでした。

しかし、2011年に入り、2月下旬に体調不良を訴え、検査を受けた際に胃がんが発見されました。

胃がんが発見された時、肝臓にも転移しており、すでに末期の状態だったのです。

具体的な経過を見ると、3月下旬に都内の病院へ入院しましたが、手術は困難な状態で、抗がん剤治療も十分に行えませんでした。

児玉さんの最後の仕事となったのは、3月23日に収録したNHKの書評番組「週刊ブックレビュー」でした。

長年続けてきた「パネルクイズ アタック25」は3月31日の大阪・朝日放送での収録を欠席され、5月12日の収録復帰を目指していましたが、かないませんでした。

闘病期間はわずか2ヶ月半という短さで、あっという間に、あちらの世界へ旅立たれました。

私は、児玉清さんをテレビで見かけなくなったなと思っていた矢先、お亡くなりになったというニュースを知って、ついこの間までお元気だったのにと、驚きを隠せませんでした。

児玉清の主な作品について

◆映画

  • 「悪い奴ほどよく眠る」(1960年、黒澤明監督)
  • 「別れて生きるときも」(1961年、堀川弘通監督)
  • 「日本海大海戦」(1969年、丸山誠治ほか監督)
  • 「HERO」(2007年、鈴木雅之監督)

◆テレビドラマ

  • 「ありがとう1〜3部」(1970〜1974年、TBS)
  • 「花は花よめ」(1974〜1975年、日本テレビ系列)
  • 「沿線地図」(1979年、TBS系列)
  • 大河ドラマ「武田信玄」(1988年、NHK)
  • 大河ドラマ「太平記」(1991年、NHK)
  • 「大地の子」(1995年、NHK)
  • 「HERO」(2001年、フジテレビ系列)
  • 「鹿男あをによし」(2008年、フジテレビ系列)
  • 「コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命」(2008年・2009年・2010年、フジテレビ)
  • 大河ドラマ「龍馬伝」(2010年、NHK)

◆バラエティ番組など

  • 「パネルクイズ アタック25」(1975年〜2011年、ABC)
  • 「週刊ブックレビュー」(1993年〜2011年、NHK-BS2→NHK BSプレミアム)
  • 「ワーズハウスへようこそ」(2009年〜2011年、日本テレビ)
  • 「テレフォン人生相談」(ラジオ、2003年〜2011年、ニッポン放送)

◆著作

  • 「寝ても覚めても本の虫」(2007年、新潮文庫)
  • 「負けるのは美しく」(2008年、集英社文庫)
  • 「児玉清の「あの作家に会いたい」 人と作品 人と作品をめぐる25の対話」(2009年、PHP研究所)
  • 「すべては今日から」(2012年、新潮社)

児玉清の代表作は

児玉清さんは、1958年に東宝での映画デビュー以降、数々の名作に出演してきました。

黒澤明監督の「悪い奴ほどよく眠る」では、その端正な容姿と知的な雰囲気を活かした演技で注目を集めることになります。

テレビドラマでは「ありがとう」や「HERO」、大河ドラマ「龍馬伝」など、脇役として確かな存在感を示しました。

特に2001年に放送された「HERO」では、木村拓哉さん演じる主人公の上司・鍋島次席検事役を好演し、知的で冷静な検事像を見事に表現しています。

児玉さんは当初、このドラマ「HERO」の出演依頼を断ったそうです。

しかし、当時マネージャーを務めていた娘さんから、「泣く子が黙るようなキムタクさんが出るんだから、・・出なさい」と説得され、出演を引き受けたそうです。

ちょうどその頃は、娘さんの病気がみつかり、大変な時期だったといいますが、娘さんに背中を押されて、「HERO」に出演以降、俳優としての仕事が増え、若い世代からも人気を得るようになったと言います。

また、2010年の大河ドラマ「龍馬伝」では、主人公・坂本龍馬の父である坂本八平を演じましたが、この作品がドラマ出演の最後となりました。

しかし、児玉清さんの代表作として最も広く知られているのは、1975年4月から36年もの長きにわたって司会を務めたクイズ番組「パネルクイズ アタック25」でしょう。

「アタックチャ~ンス!」という温かみのある掛け声と、参加者への紳士的な対応、そして知的で落ち着いたキレのある司会ぶりは、多くの視聴者に愛され続けました。

児玉さんは、この番組の司会のみならず、企画にも関わり、番組全体をまとめる役目をするなど、アタック25というファミリーの父親的存在だったと言われています。

また、博多華丸・大吉のお笑いコンビが、この「パネルクイズ アタック25」の司会をする児玉さんのモノマネをしたところ、大いにウケて、彼らは売れっ子芸人の仲間入りを果たしました。

また、芸能界屈指の読書家としても知られ、NHKの書評番組「週刊ブックレビュー」の司会も担当しており、2011年3月23日の同番組出演が、最後の仕事となりました。

ちなみに、児玉さんが演じた中で、私が個人的に好きだったのは、「鹿男あをによし」(2008年、フジテレビ) での小治田史明役です。

小治田史明は、リチャードというあだ名がある、ダンディな教頭先生だったのですが、その正体は、日本の滅亡を目論む悪党の一味(ネズミの使い)だったというもので、私は驚きました。

普段、信頼の厚い、重厚な役柄が多かった児玉さんが、主人公を陥れたり、人を騙して逃げたりといった詐欺師のような役をやっていたことがとても意外で、驚きと共に新鮮な感じがして、とても楽しくドラマを観ていました。

読書家で有名、作家として活躍

児玉清さんは、芸能界屈指の読書家としても知られ、所有する蔵書は1万冊以上、NHKの「週刊ブックレビュー」などの書評番組でも司会を担当していました。

海外の小説が好きで、原書で読んでしまうことも日常的だったそうです。

その教養の深さと知性は、多くの関係者から高い評価を受けていました。

読書家であったことから、書評などの著書も多数出されています。

児玉さんの文章は、その語彙力の高さ、表現力の豊かさに定評がありました。

また、切り絵作家としての一面も持ち合わせており、友人たちにカレンダーを作って配るなど、芸術的なセンスも持ち合わせていました。

表舞台では常に冷静沈着な姿を見せていた児玉さんでしたが、実は家族の前では「自信がない」「不安だ」と本音を漏らすこともあり、真摯に仕事と向き合う一面も持ち合わせていました。

学習院大学を卒業後、俳優、司会者、読書家、作家、芸術家と、多岐にわたる分野で活躍し、日本の芸能界に大きな足跡を残した稀有な存在といえるでしょう。

児玉清の妻、息子、娘について

ここでは児玉清さんの妻や息子、娘について解説していきます。

妻は元女優の北川町子

児玉清さんの妻は元女優の北川町子(本名:北川好子)さんです。

1964年8月に結婚して、それから児玉清さんが亡くなるまで、50年近く連れ添いました。

北川町子さんは、東宝専属の中堅女優さんで、セクシーな雰囲気の女優さんでした。

姉御肌で無作法な役柄が多かったのですが、素の北川さんは、真面目で控えめな感じのいい女性だったそうです。

北川さんと出会った児玉さんは、相性がいいと感じ、交際して4か月ほどで結婚しました。

児玉清さんは、結婚前の本名は「小玉 清」と言いましたが、北川家の婿養子となり、姓を「北川」に変えています。

児玉さんと北川さんが結婚した当時、2人の結婚は、売れない俳優と売れている女優との結婚と周囲の人は見ていました。

結婚してまもなく、北川さんが女優を辞めたため、会社ばかりでなく、ベテラン女優の賀原夏子さんも、大好きな女優さんが辞めてしまったと残念がり、彼女が復帰する際は知らせてほしいとまで言われて、児玉さんは落ち込んだそうです。

児玉さんは北川さんとの間に、息子さんと娘さんを儲けています。

ちなみに、「事務用品の販売・卸会社の株式会社チカダ」は、北川町子さんの実家の家業で、児玉さんは、その会社の役員をしていました。

息子は元タレントの北川大祐、娘は元マネージャー

児玉清さんの息子さんは、元タレントの北川大祐さんです。

引用:https://ie1635.doorblog.jp/archives/40089971.html


1969年10月8日生まれ、特技は、中学時代から継続していたバスケットボールです。

1988年にテレビ朝日系列のドラマ、「火曜スーパーワイド・手料理かあさんと高校生花嫁の新家族ゲーム」でデビューし、児玉清さんと親子共演をして話題となりました。

デビュー後は、主にタレント(CM出演など)やモデルなどで活躍しましたが、後に芸能界を引退します。

現在は、児玉清事務所代表取締役、事務用品の販売・卸会社の株式会社チカダ代表取締役社長をしています。

娘さんは、奈央子さんと言いますが、児玉清さんのマネージャーをしていました。

しかし、娘さんが34歳の時、「スキルス胃がん」に罹っていることがわかります。

嘆き悲しむ娘さんを、児玉さんは必死で慰めたと言います。

そして、2002年、娘さんは当時4歳の息子さん(児玉さんの孫)を残して亡くなりました。
若くして、幼い我が子を残したまま他界された娘さんは、何とも心残りで無念であったでしょう。

娘さんが亡くなった2002年当時は、日韓共催のFIFAワールドカップが行われており、娘さんの葬儀の時は世間が騒がしくて、児玉さんはじめ、ご家族の方にはとても辛かったことと思います。

まとめ:児玉清の死因は「胃がん」、俳優、司会者、読書家などマルチに活躍した稀有な存在だった

児玉清は、俳優や司会者として日本の芸能界に大きな足跡を残しました。

その活動範囲は映画、テレビドラマ、クイズ番組など多岐にわたり、それぞれの分野で独自の魅力を発揮しました。

1958年に東宝での映画デビューを果たして以来、黒澤明監督の「悪い奴ほどよく眠る」をはじめ、数々の名作に出演。

特に1975年からスタートした「パネルクイズ アタック25」では、36年という長きにわたって司会を務め上げ、多くの視聴者の心に刻まれました。

ドラマでは「HERO」や「龍馬伝」など、時代を代表する作品に脇役として出演し、確かな演技力で作品の質を高めることに貢献しました。

芸能界きっての読書家としても知られ、NHKの書評番組「週刊ブックレビュー」の司会を務めたり、作家としても活躍されており、文化人としての一面も持ち合わせていました。

趣味の切り絵制作や、友人へ配るカレンダーを手作りするなど、その創作意欲は晩年まで衰えることはありませんでした。

このように順調に仕事をこなしていた児玉清さんでしたが、2011年2月に症状が出て、3月に病院で検査を受けたところ、「胃がん」が発見されました。

病状は、既に肝臓へ転移しており末期の状態で、十分に治療することはできませんでした。

そして、同年5月16日午後0時28分、奥様と息子さんに看取られながら、旅立たれました。

死因は「胃がん」でした。
がんが発見されてから亡くなるまで、ほんの2か月半という、あっという間の出来事でした。


児玉清さんは、本当に素敵な俳優さんだったと思います。

若い頃もイケメンだったのですが、年齢を重ねるごとにかっこよくなっていったと言いますか、知性と気品、そして温かい人柄の良さが外見に滲み出ている感じでした。

あんな風に、素敵に年齢を重ねていける人は、芸能人でも少ないのではないかと思います。

児玉清さんが亡くなった後に、ドラマ「HERO」の第2シーズンが2014年に放映されましたが、そこで、児玉さんは写真で出演しました。

このドラマの劇中でも、児玉さんが演じた鍋島次席検事の人柄を偲ぶシーンがありますが、児玉さんは、誠実で温かく、周囲から慕われ、信頼されている、鍋島次席検事そのものだと思います。

他界されて10年以上経った今でも、多くのファンに愛され続けています。

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