しばたはつみの死因とは?紅白出場のジャズ歌手、父、夫、晩年を解説
しばたはつみさんは、主に1970〜1990年代初頭に活躍した歌手です。
しばたさんの主なジャンルはジャズでしたが、ジャズ以外でもソウル、R&B、ロックなど幅広いジャンルを歌いこなし、圧倒的な歌唱力で一斉を風靡しました。
この記事では、主に、しばたはつみさんの歌手としての活躍と急逝した原因、晩年の詳細について解説していきます。
もくじ
しばたはつみとは?
ここではしばたはつみさんのプロフィールや、歌手としての大まかな活躍を解説していきます。
しばたはつみの経歴
#NowPlaying 合鍵 – しばたはつみ (しばたはつみ・しんぐるこれくしょん) pic.twitter.com/VVDRAlweQV
— watambe®ロボット・ナビゲーター™ (@senri_chuo) April 8, 2024
しばたはつみさん(本名:細合はつみ)(旧芸名:はつみかんな、麻まにか)は、1952年4月11日、東京都新宿区で生まれました。
身長は157㎝、血液型はA型です。
しばたはつみさんは、音楽一家に育った才能豊かなアーティストでした。
父親はピアニスト、母親はヴォーカリストという恵まれた環境で、幼少期から音楽の才能を開花させていきます。
一人っ子として育ったしばたはつみさんには、芸能界で活躍した松本伊代さんが再従姉妹(はとこ)という意外な縁がありました。
しばたはつみさんは、9歳という若さで進駐軍(米軍)キャンプの将校クラブでの歌唱活動を開始し、その後「スマイリー小原とスカイライナーズ」の専属歌手として本格的な音楽活動をスタートさせます。
12歳の頃から進駐軍キャンプを周り、進駐軍のアイドルとなった江利チエミさんや、幼い頃から進駐軍キャンプで歌い始め、11歳でレコード・デビューした伊東ゆかりさんなどと共通した経歴に思いますが、しばたさんを始め、これらの歌手の人は、みんな英語の歌詞の歌がとても上手ですね。
英語の歌詞を滑らかに歌っていて、しかも歌唱力がすごい人ばかりです。
しばたはつみさんも幼い時から、体の大きくて外国語を話す外人さんたちの前へ出て歌うのは、怖かったでしょうし、とても勇気がいったと思います。
下手くそに歌ったら、すぐさま文句を言われたでしょうから、実力も度胸も自然とついていったんだと想像できます。
15歳で、ファッションメーカーのCMソングや、丸善石油(現コスモ石油)の「OH!モーレツ」のCMソング(1969年)を歌うなど、早くから才能を発揮。
1968年には「はつみかんな」の名前で「乙女の季節」でビクターからデビューを果たしました。
#Sixties #Japanese
— ピロシキ a.k.a. パパねん (@hard_moderns) May 29, 2021
「恋と海と太陽と」はつみかんな
'68に発売されたデビュー・シングル「乙女の季節」の b/w🎵
パンチの効いた"ビート歌謡"の隠れた傑作です🎤🏖️🌤️⚡🔥💥
彼女は後に、"しばたはつみ"と改名しました‼️👍
詞:なかにし礼/曲・編:すぎやまこういち🎶📄🎼🖊️https://t.co/SmY91nH7uB pic.twitter.com/0azMLFckct
しばたはつみの芸能界での活動
しばたはつみさんは、立正学園高等部を卒業後、20歳でアメリカに渡り、2年間の海外生活を経験します。
アメリカに渡ったしばたはつみさんは、本場のショービジネスの舞台に立って活動します。
そこでの実力を評価されて、サミー・ディビスJr.から認められ、彼の前座を務めたこともあるそうです。
このことが、後に、サントリーウイスキーのコマーシャルにサミー・ディビスJr.の出演が決まった時に、共演相手に指名されるきっかけとなったのでしょう。
この2年間の活動は、しばたはつみさんにとって貴重な経験となりました。
そして1974年に帰国、同年に「合鍵」で日本コロムビアから本格デビューを果たし、その後ジャズ、ソウル、R&B、ロックなど幅広いジャンルを歌っていきます。
1977年にリリースした「マイ・ラグジュアリー・ナイト」は、オリコンチャート17位を記録する大ヒット曲となり、同年のNHK紅白歌合戦への出場を果たしました。
しばたさんは、シングル33曲、アルバム22枚という豊富なディスコグラフィーを残し、1975年にリリースした「ブルースを唄う女」は、ジャズピアニストの世良譲に師事して制作された意欲作として高い評価を得ました。
TBS系列の音楽番組「サウンド・イン”S”」(1974〜1981年)ではサブ司会も務め、海外公演を含む年間100ステージ以上をこなすなど、精力的な活動を展開しました。
マイラグジュアリーナイト しばたはつみ https://t.co/Wd0YHDuox4 pic.twitter.com/sCVQYJHrBP
— aki (@aki72393919) May 9, 2023
しばたはつみの死因は?
ここでは、しばたはつみさんの死因について、詳細に解説していきます。
しばたはつみの死因は「急性心筋梗塞」
しばたはつみさんの死因は、「急性心筋梗塞」です。
これは、2010年3月27日午前6時頃、静岡県伊東市の自宅浴室で発症しました。
直前の2009年12月には右胸の乳がん摘出手術を受け、2月に退院後、3月19日から予防的な抗がん剤治療を開始していたことが明らかになっています。
抗がん剤治療の副作用による血圧上昇と不眠に悩まされており、眠れない夜は自宅の温泉に入浴する習慣がありました。
事故当日の3月26日は、普段一緒に入浴する夫の細合正吾さんが仕事で不在だったため、しばたさんは一人での入浴を選択します。
翌27日朝、同居していた父親が浴槽内で変わり果てた姿のしばたさんを発見しました。
享年57歳という若さでの突然の死でした。
しばたはつみさんの告別式は、2010年4月5日、東京都大田区田園調布にある密蔵院大慈閣で行われました。喪主は夫の細合正吾氏でした。
しばたはつみの晩年について
しばたはつみさんの晩年は、銀座のライブハウスで月1回程度のコンサートを開催しながら、静かな生活を送っていました。
2003年頃に母親との死別を経験し、うつ病と更年期障害に苦しんだことから、約7年間の歌手活動休止を余儀なくされたのです。
しかし、2008年頃からうつ病の症状は徐々に改善に向かい、2009年7月7日には28年来のパートナーである細合正吾さんと正式に入籍。
しばたさんは、入籍ができるまでに回復していたと言えます。
2009年末には右胸の乳がんが発見され、全摘出手術を受けるも、前向きな姿勢を崩すことはありませんでした。
2010年には自宅敷地内に録音スタジオの建設を開始し、本格的な歌手復帰を目指していました。
抗がん剤治療の副作用で血圧上昇や不眠に悩まされながらも、自宅の温泉で心を癒やしていたといいます。
2010年3月26日、眠れないため、習慣にしていた自宅の温泉に1人で入り、翌日の3月27日、変わり果てた姿で、父親に発見されます。
「急性心筋梗塞」による急逝でしたが、これから、しばたはつみさんの新たな活動が始まるという矢先の出来事で、大変残念に思います。
最期まで音楽への情熱を持ち続け、「もうみんな私のこと忘れているよね?」と周囲に語っていたそうですが、その言葉とは裏腹に、多くのファンの心に彼女の歌声は深く刻まれていました。
しばたはつみの主な作品とは?
◆しばたはつみの主な作品
- 「合鍵」(1974年)
- 「シンガーレディ」(1975年)
- 「マイ・ラグジュアリー・ナイト」(1977年)
- 「夜はドラマチック」(1978年)
- 「ラブ・イズ・イリュージョン」(1979年)
- 「最後のリクエスト」(1981年)
- 「Show Me The Way」(1981年)
- 「化石の荒野」(1982年)
- アルバム「ブルースを唄う女」(1975年)
しばたはつみの代表曲について
しばたはつみさんは、1974年、日本コロムビアから「合鍵」で再デビューを飾り、通算33枚のシングルと22枚のアルバムをリリースしました。
しばたはつみさんの代表曲といえば、やはり「マイ・ラグジュアリー・ナイト」でしょう。
1977年にオリコンチャート17位を記録し、同年の、第28回NHK紅白歌合戦出場への切符を手にしています。
深夜に『マイ・ラグジュアリー・ナイト』1977年・しばたはつみ。
— カントク (@kantokuflash) October 25, 2024
作詞 来生えつこ / 作曲 来生たかお / 編曲 林哲司。
当時皆が憧れたワンランク上の大人の世界を思わせる名曲であり、しばたはつみのヴォーカルの魅力が一際輝いている。
(NoCut)#昭和 pic.twitter.com/fitJpr90I2
アルバム作品では、1975年発表の「ブルースを唄う女」が高い評価を受けており、ジャズピアニストの世良譲から直接指導を受けた本格的なジャズアルバムとなっています。
CMソングでも数々の名曲を残しており、丸善石油(現コスモ石油)の「OH!モーレツ」は一世を風靡する流行語となりました。
『丸善ガソリン100ダッシュ』1969年・丸善石油。
— カントク (@kantokuflash) September 22, 2024
製作 東北新社、音楽企画センター。
代理店 電通大阪支社。
コピー 富沢善治 / 伊藤アキラ。
ディレクター 永井清。
出演 小川ローザ。
使用曲「猛烈ダッシュ」
作詞 伊藤アキラ / 作曲 越部信義。
歌唱 しばたはつみ / ハニー・ナイツ。#昭和 pic.twitter.com/HhpqpAOVFL
CMソングでも私個人としては、1979年リリースの、「ラブ・イズ・イリュージョン」が印象に残っています。
これは、マツダのコスモという車のCM曲だったのですが、かっこいい車が走り抜ける映像と、しばたさんの大人の恋の歌がマッチして、子供の頃に、すごく憧れたことが印象に残っています。
しばたはつみさんは、話題の映画などの主題歌も歌っています。
映画「化石の荒野」(1982年、長谷部安春監督)の主題歌「化石の荒野」、テレビスペシャル「ルパン三世 ロシアより愛をこめて」(1992年、日本テレビ系列)の主題歌「Golden Game」などがあります。
音楽業界への影響と評価
しばたはつみさんの楽曲は、ジャズ、ソウル、R&B、ロック、ポップスと多岐にわたり、その歌唱力とジャンルを超えた表現力は、海外でも高く評価されていました。
2010年に57歳で惜しまれつつこの世を去るまで、国内外で年間100ステージ以上をこなす精力的な活動を続けていたことでも知られています。
しばたはつみさんは、日本のポピュラー音楽史に大きな影響を与えました。彼女の卓越した音楽性は、後続のアーティストたちにも大きな影響を与え続けているのです。
◆主な賞歴
- 第1回スペイン・マジョルカ音楽祭 準優勝・シンパティコ賞(1975年)
- 第4回東京音楽祭国内大会 ゴールデンカナリー賞(1975年)
- 第4回東京音楽祭世界大会 銅賞・外国人審査員団賞(1975年)
- 第9回テレビ大賞 特別賞「サウンド・イン”S”」(1977年)
- 第10回東京音楽祭世界大会 特別歌唱賞(1981年)
- 第12回日本ジャズヴォーカル賞 大賞(1996年)
しばたはつみの父・夫・家族について
ここでは、しばたはつみさんの父親や夫など、家族について解説していきます。
父はジャズピアニストの柴田泰
しばたはつみさんは、音楽一家の一人娘として生まれ育ちました。
父はジャズピアニストの柴田泰さん、母はヴォーカリストでした。
父の柴田泰さんは、ジャズピアニストとして活躍していましたが、それ以外にも、長年渡辺プロダクションに所属されていて、所属歌手のヴォーカルレッスンをされていたそうです。
指導していた歌手は布施明、ザ・タイガース(沢田研二など)、小柳ルミ子やキャンディーズなど、有名歌手ばかりで驚きました。
昭和時代に「スクールメイツ」という、メイン歌手のバックで踊ったり歌ったりするグループがあったのですが、そこのメンバーのヴォーカルレッスンの指導者も行っていたそうで、教え子が多かったそうです。
現役を引退された後でも、ピアノの腕は衰えず、時々結婚式など人前でそのピアノを披露されていたそうです。
夫は事務所社長の細合正吾
しばたはつみさんの夫は、しばたはつみさんの所属事務所の社長である細合正吾氏です。
しばたはつみさんと28年間にわたり、公私ともに深い絆で結ばれ、最後の1年は正式に夫婦として過ごしました。
しばたさんの所属事務所だった「トレジャーアイランドコーポレーション」は、音響関係事業と運送業を営む会社として存続しており、現在も夫の細合氏が社長を務めています。
まとめ:しばたはつみの死因は「急性心筋梗塞」、紅白にも出場した実力派歌手だった。
しばたはつみさんは、音楽一家に生まれた実力派シンガーでした。
ピアニストの父とヴォーカリストの母という恵まれた環境で育ちました。その才能は早くから開花し、わずか9歳で米軍キャンプの将校クラブで歌い始めるという異例の経歴を持っていました。
15歳でファッションメーカーのCMソングを担当し、1968年には「はつみかんな」として「乙女の季節」でビクターからデビューを果たしました。
その後、20歳で渡米し、2年間、本場のショービジネスを経験して1974年に「しばたはつみ」として日本コロムビアから再デビュー。
ジャズボーカリストとしての本格的な活動をスタートさせ、世良譲に師事して実力を磨いていきました。
1977年にリリースした「マイ・ラグジュアリー・ナイト」は、オリコンチャート17位を記録する大ヒット曲となり、同年のNHK紅白歌合戦に初出場を果たします。
その後も海外公演を含む年間100ステージ以上をこなすなど、精力的な活動を展開しました。
しかし、晩年は、健康上の問題が次々と起こります。
母親を亡くしたことをきっかけにうつ病と更年期障害を患っており、約7年前から歌手活動を休止していました。
亡くなる3か月前の2009年12月には、右胸の乳がんが発見され、全摘出手術を受け、予防的な抗がん剤治療と治療の副作用で血圧上昇や不眠に悩まされていたといいます。
そして、2010年3月27日午前6時頃、静岡県伊東市の自宅浴室で、「急性心筋梗塞」により57歳で亡くなりました。
お亡くなりになった時は、体調は回復してきており、歌手活動再開に向けて準備をしている矢先の出来事だったと言います。
しばたはつみさんは、アメリカの本場のショービジネスを経験し、サミー・ディビスJr.から認められるほどのパワフルな歌唱力で、他を圧倒していた実力派歌手でした。
本来なら、もっと評価され、活躍することが期待できる歌手だったと、個人的には思います。
50年近く経った今でも、大人の恋の歌をかっこよく歌う、しばたはつみさんの歌声は忘れられません。
しばたはつみさんと同じように、アメリカのショービジネスでも活躍し、大ヒット曲「北国行きで」を歌った実力派歌手、「朱里エイコ」さんの記事もありますので、併せてお読みください。