昭和の女性シンガーソングライター10選【ヒット曲も紹介します】
昭和時代、女性のシンガーソングライターが誕生し、ヒット曲を沢山生み出し、現在も残る名曲がたくさんあります。
本記事では、懐かしの昭和ポップスを彩る女性シンガーソングライターを厳選してみました。
昭和の女性シンガーソングライターや曲について興味がある人はぜひ参考にしてください。
もくじ
昭和のシンガーソングライター10選【ヒット曲も紹介】
ここでは1970年代、80年代を中心に活躍した、女性シンガーソングライターを、ヒット曲と共に紹介していきます。
- 荒井由実(松任谷由実)
- りりィ
- 五輪真弓
- 大貫妙子
- 中島みゆき
- 尾崎亜美
- 渡辺真知子
- 竹内まりや
- 八神純子
- 石川優子
荒井由実(松任谷由実)
生存期間 |
1954年〜 |
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出身地 |
東京都 |
デビュー時期 |
1972年 |
主なヒット曲 |
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女性シンガーソングライターといえばこの人、荒井由実さんです。
80年代〜90年代にかけて、若者のカリスマ、恋愛の神様と言われるほど大人気でした。
ファンからは、ユーミン(Yuming)の愛称で親しまれています。
1976年、松任谷正隆氏と結婚し、名前を荒井由実から松任谷由実に変えています。
松任谷由実さんは、アルバムのセールスで驚異的な数字を出しています。
1981年発売の「昨晩お会いしましょう」でオリコン1位を獲得してから、1997年発売の「Cowgirl Dreamin’」まで連続18回に渡り1位を記録しました。(女性歌手としては1位の3135万枚の売上を記録)
沢山のレコード、CDを売り上げる一方で、コンサート活動も精力的に行っています。
1981年から始まった、苗場スキー場でのコンサート(苗場ライブ)は誰もが1度は行ってみたいという冬の風物詩とも言われています。
また、1980年ごろから、「呉田軽穂」の名前で、多くのアーティストに楽曲を提供しています。
松田聖子さんが歌った「赤いスイートピー」やバンバンが歌った「いちご白書をもう一度」、三木聖子さんが歌い、石川ひとみさんがカバーして大ヒットして「まちぶせ」などがあります。
昭和、そして平成を中心に、日本のポップス界のトップランナーとして活躍しています。
りりィ
生存期間 |
1954年〜2016年 |
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出身地 |
福岡県 |
デビュー時期 |
1972年 |
主なヒット曲 |
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りりィさんは、ハスキーな声と顔立ちの美しさが特徴のシンガーソングライターです。
荒井由実さんや五輪真弓さんらと同じ年の1972年2月にレコードデビューしており、女性シンガーソングライターとしては、草分け的な存在です。
1974年にリリースされた「私は泣いています」が大ヒットして、りりィさんの代表曲となりました。
りりィさんはアメリカ人(父親)とのハーフで、その美しい顔立ちから、歌と並行して、映画出演(大島渚監督「夏の妹」)するなど女優としても活躍していました。
また、りりィさんは当時最も人気の高かった「バイ・バイ・セッション・バンド」と共に活動して、全国のライブハウス等を精力的に回っていました。
1982年に2度目の結婚をして、それを機に活動を休止、1985年に長男の樹音さんを授かり、しばらく芸能活動から遠ざかり主婦業に専念します。
それから、1997年にTBSドラマ「青い鳥」に出演して芸能活動に復帰します。
復帰後は、1999年に「Lily-Yoji」(りりィアンドヨージ)というユニットを結成して、音楽活動を行っていますが、女優としての活躍が目立っていました。
「3年B組金八先生」、「半沢直樹」などのテレビドラマに出演し、映画「パークアンドラブホテル」(熊坂出監督)では、主役のラブホテルオーナーを演じて、この作品が、 第58回ベルリン国際映画祭、フォーラム部門の最優秀新人作品賞を受賞しています。
2016年11月に肺がんで亡くなりました。64歳という若さでした。
著名な家族として、長男のミュージシャンのJUONさん、義娘(長男の嫁)の「DREAMS COME TRUE」の吉田美和さんがいます。
五輪真弓
生存期間 |
1951年〜 |
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出身地 |
東京都 |
デビュー時期 |
1972年 |
主なヒット曲 |
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五輪真弓さんはデビュー当時から、ファーストアルバム「五輪真弓/少女」がオリコン6位にランクされるなど、評価が高く、所属するレコード会社CBS・ソニーでは、当時若者のカリスマだった吉田拓郎と同じ待遇で扱われていたそうです。
また、このファーストアルバム「五輪真弓/少女」はアメリカ、ロサンゼルスのスタジオでレコーディングされており、この海外レコーディングの成功により、日本のアーティストは、こぞって海外でのレコーディングを行うようになりました。
その後も、五輪真弓さんは、シングルやアルバムを精力的に発表していきます。TBSテレビ「ザ・ベストテン」、フジテレビ「夜のヒットスタジオ」等の歌番組に出演して、知名度が上がりました。
そして、1980年にリリースされた「恋人よ」は、哀愁に満ちたバラードで、大ヒットとなり、五輪真弓さんの代表曲となりました。
後に多くのアーティストに、世代を超えてカバーされる名曲となります。
五輪真弓さんは、曲の素晴らしさもさることながら、その歌唱力、歌い手としての表現力がずば抜けており、歌を聴いていると同時に、1本の映画を見ているかのように、歌の世界に引きずり込まれます。
五輪真弓さんは東南アジアでも人気が高く、特にインドネシアでは、五輪真弓さんの「心の友」が大人気で、「第2の国歌」と言われているほどです。
私生活では、1984年にミュージシャンの鈴木宏二氏と結婚し、2人のお子さんがいます。
結婚後は芸能活動をセーブしていましたが、2000年以降、徐々に活動を再開して、昨年2022年にデビュー50周年を迎えています。
大貫妙子
生存期間 |
1953年〜 |
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出身地 |
東京都 |
デビュー時期 |
1976年(ソロデビュー) |
主なヒット曲 |
・黒のクレール |
大貫妙子さんといえば、可愛らしくて澄んだ声と、ふわっとした雰囲気の中にも個性が光る人気のシンガーソングライターで、癒しと透明感のある数々の名曲を生み出し続けて、その音楽性は高く評価されています。
大貫妙子さんの目立った音楽活動は、1973年、山下達郎氏らと共に「シュガー・ベイブ」というバンドのメンバーだったことから始まります。
大貫さんはそのバンドでは、ヴォーカル、キーボードを担当していました。
「シュガー・ベイブ」は、今でこそ日本のシティポップスの先駆けとして、その音楽は高く評価されていますが、70年代前半の当時、彼らの音楽に時代の方が追いついていけず、あまり売れませんでした。
仕事が暇だったので、大貫さんと山下達郎氏、そして当時まだ学生だった坂本龍一氏と、よく麻雀をやって過ごしたそうです。
「シュガー・ベイブ」が解散した後、大貫妙子さんはソロのシンガーソングライターとしてデビューします。
テレビなどのメディアにはあまり登場しなかったせいか、大貫妙子さんは、大衆的な認知度はあまり高くありませんが、精力的にアルバムの制作に取り組んでいました。
そして、1983年リリースの「夏に恋する女たち」は、テレビドラマの主題歌となり、アルバムチャートの5位にランクするなど、徐々に世の中に広がっていきます。
また、1984年、NHK「みんなのうた」で放送された「メトロポリタン美術館」は子どもたちに大人気となります。
ポップで可愛らしいこの曲は、最後のオチがサラッと恐怖を与えていて、印象深い曲になっています。
・メトロポリタン美術館
そして、1996年に公開された、映画「Shall we ダンス?」(周防正行監督)の主題歌となる「Shall we dance?」を歌唱し、映画の大ヒットともにヒットし、歌手としても知名度が上がっていきます。
ちなみに、大貫妙子さんと共同でアルバム制作を行うなど、長年共作・共演を行なってきた坂本龍一氏ですが、若い時に一時期、お二人は同棲していた事があったそうです。
坂本龍一氏が手がける大貫妙子さんの曲のアレンジは、とても素晴らしく(「ひまわり」など)、大貫妙子さんとその作品をとても大切に思っている事を感じさせます。
私生活では独身を通されており、大好きな音楽を、素敵な音楽仲間やスタッフと共に続けられている、そんなミュージシャンとしては最高の人生を歩んでおられるそうです。
中島みゆき
生存期間 |
1952年〜 |
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出身地 |
北海道 |
デビュー時期 |
1975年 |
主なヒット曲 |
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中島みゆきさんは、幅広い世代から支持されている日本ポップス界の大御所で、知らない人がいないくらいの有名なシンガーソングライターです。
中島みゆきさんは、北海道札幌市の開業医の家庭で育ちます。
藤女子大学に進学後は、活発な音楽活動を行い、様々なコンテストに出場し、「フォーク音楽祭全国大会」で入賞するなど活躍していました。
デビューのきっかけとなったのは、1975年、ヤマハ音楽振興会が主催する「第9回ポピュラーソング・コンテスト」に「傷ついた翼」が入賞したことです。
同年に「アザミ嬢のララバイ」でデビューし、その直後、再び「第10回ポピュラーソング・コンテスト」に「時代」で出場し、グランプリを受賞。同年の『第6回世界歌謡祭』でもグランプリを受賞しました。
1976年には、ファースト・アルバム「私の声が聞こえますか」をリリースして、そこから現在に至るまで、1年に1枚ずつのペースでアルバムを発表し続けています。
シングルでは、1977年の「わかれうた」が大ヒットし、アルバム・シングル制作の傍ら、研ナオコさんに「あばよ」、桜田淳子さんに「しあわせ芝居」、増田恵子さんに「すずめ」などの楽曲提供を行っています。
80年代に入ると、1981年にリリースした、シングル「悪女」はオリコンのシングルチャートで1位を獲得し、大ヒットします。
翌年の1982年にリリースされたアルバム『寒水魚』は、オリコンの年間アルバムチャートで1位を獲得し、同年のTBSテレビドラマ「3年B組金八先生」の劇中歌として使用された「世情」が注目を浴びます。
・アルバム「予感」(1983年)より「ファイト」(後にシングルとして発売)
1983年、柏原芳恵さんに楽曲提供した「春なのに」が大ヒットし、この曲で第25回日本レコード大賞の作曲賞を受賞しており、その後も、アイドルの工藤静香さんの「MUGO・ん…色っぽい」、「黄砂に吹かれて」などの作詞を手掛けています。
90年代に入ると、1994年、リリースされた「空と君のあいだに/旅人の歌」は、日本テレビドラマ「家なき子」の主題歌として書き下ろしたもので、147万枚の大ヒットを記録しました。
また、1989年から始めた舞台と音楽を融合させた「夜会」(やかい)は、中島みゆきさんのライフワークとなり、90年代後半はこの「夜会」の舞台を中心に活動しています。
2000年に入り、NHKのテレビ番組「プロジェクトX~挑戦者たち~」の主題歌「地上の星/ヘッドライト・テールライト」は中高年のサラリーマンを中心に人気を集めて、曲の発売後2年以上かけて、オリコンシングルチャート1位を獲得する偉業を達成します。
「地上の星/ヘッドライト・テールライト」のヒットをきっかけに2002年第53回NHK紅白歌合戦に出場しました。
ちなみに、1970年代 〜2000年代まで4年代連続の1位を獲得したアーティストは、中島みゆきさんだけだそうです。
また、シンガーソングライター以外では、1979年から、ニッポン放送のラジオ深夜番組「中島みゆきのオールナイトニッポン月1」のパーソナリティを務めて、人気を博しました。(番組は1987年に終了)
私生活では独身を通しています。
早くにお父さんを亡くされ、お母さん、弟さんら家族を支えるために、仕事に打ち込んでおられたと言われています。
尾崎亜美
生存期間 |
1957年〜 |
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出身地 |
京都府 |
デビュー時期 |
1976年 |
主なヒット曲 |
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尾崎亜美さんは、透明感のある歌声とピアノの弾き語りのスタイルで歌うシンガーソングライターで、アイドルや女性シンガーなどにも多くの楽曲を提供し、70年代後半から80年代にかけて、沢山のヒット曲を世にお送り出した作詞・作曲家、編曲家としても有名です。
尾崎亜美さんは、8歳でクラシック・ピアノを習い始め、高校生の時にポップミュージックに興味を持って、音楽サークルに参加し、地元のラジオ・テレビ局主催のオーディション番組に参加し、高評価を得るなどして、1976年にシングル「冥想」をリリースしてデビューします。
また、同じく1976年に松任谷正隆氏がプロデュースしたアルバム「SHADY」(シェイデイ)を発表し、ポスト・ユーミンの最有力と言われました。
松任谷由実さんとは、尾崎さんのデビュー後に、松任谷さんのアルバムにコーラスとして参加して以来、現在も交流があるそうです。
1977年、3枚目のシングル「マイ・ピュア・レディー」は、化粧品のCMソングに起用され、小林麻美さん出演の美しいCMの映像と曲がピタリとハマり、ヒットして、一気に注目を集めます。
1978年、南沙織さんに「春の予感‐I’ve been mellow‐」(化粧品のCMソング)、杏里さんに「オリビアを聴きながら」、髙橋真梨子さんに「あなたの空を翔びたい」等の楽曲提供し、いずれもヒットしています。
・オリビアを聴きながら
この他にも、70年代後半から80年代にかけて、河合奈保子さん、松本伊代さん、酒井法子さん、金井夕子さん、岩崎良美さんなどなど、多くのアイドル・女性歌手に楽曲提供されています。
特に、松田聖子さんには「天使のウィンク」、「ボーイの季節」と連続して楽曲を提供し、観月ありささんには「伝説の少女」を提供、楽曲提供を行いつつ、音楽プロデューサー的な存在の走りとして活躍します。
旺盛な作詞・作曲活動の結果、第27回日本レコード大賞 優秀アルバム賞や、第 9回日本作曲賞 優秀作曲者賞など数々の賞を受賞し、高く評価されています。
2000年以降は、アルバムの制作を継続し、全国コンサートツアーの活動、CMソング制作や、舞台の音楽監督など、益々活躍の場を広げており、2021年にはデビュー45周年を迎えています。
音楽以外では、プロ級の料理の腕前を生かして、2007年に初の料理本「尾崎亜美のうちごはん」(講談社)が出版されています。
私生活では、1997年に元サディスティック・ミカ・バンドのベーシスト、小原礼氏と結婚しています。
母は、創作袋物作家で有名な尾崎暁美さんです。
渡辺真知子
生存期間 |
1956年〜 |
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出身地 |
神奈川県 |
デビュー時期 |
1977年 |
主なヒット曲 |
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渡辺真知子さんは、横須賀市という海辺の街で生まれ、歌好きのお父さんの影響で音楽を始めます。
1975年に「第9回ヤマハポピュラーコンテスト」特別賞を受賞し、その後洗足短期大学音楽科で声楽を学び、1977年にデビューされています。
シンガーソングライターがあまりテレビなどに出ていなかった頃に「ザ・ベストテン」などの歌番組に積極的に出演します。テレビによく出ていたためか、アイドル的な扱いをされていたそうです。
よくメディアに出ていたためか、新人ながら知名度は高く、デビュー曲「迷い道」がヒットし、2枚目のシングル「かもめが翔んだ日」も大ヒットします。
この「かもめが翔んだ日」は日本レコード大賞最優秀新人賞など数々の賞を獲得し、渡辺真知子さんの代表曲となりました。
3枚目のシングル「ブルー」は、音楽的評価が高い曲で、ご自身も気に入っている曲だそうで、立て続けにヒット曲を出して、順調に音楽活動をされていました。
1980年に入り、その年にリリースされたシングル「唇よ、熱く君を語れ」は、化粧品のCMソングに起用されてヒットし、その軽快でパワフルな曲調から、女性の時代の始まりを象徴する歌として世に広まりました。
シンガーソングライターと同時に、映画(1984年「メインテーマ」薬師丸ひろ子主演)やテレビドラマに出演するなど女優としての活動や、ラジオのパーソナリティなど、タレント活動もされていました。
1988年にアメリカに留学し、翌年帰国、それ以降は、アルバム制作やコンサート活動に精力的に取り組み、現在も活躍されています。
私生活では独身を通していて、愛犬と共に暮らしているそうです。
竹内まりや
生存期間 |
1955年〜 |
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出身地 |
島根県 |
デビュー時期 |
1978年 |
主なヒット曲 |
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竹内まりやさんは、独特の低音と、ルックスの可愛さでアイドル的な存在として人気でしたが、シンガーソングライターとしての活躍で、アイドルという認識は払拭され、実力派シンガーソングライター、音楽プロデューサーとして有名になりました。
竹内まりやさんの音楽活動は、慶應義塾大学在学中に、オールジャンル・バンドサークル(音楽バンド同好会)「Real McCOYs(リアル・マッコイズ)に加入したことから始まり、竹内まりやさんはバックコーラスなどを担当したそうです。
その後、1978年、アルバム『BEGINNING』などでデビューし、その翌年、「September」がヒットし、1980年には、資生堂の化粧品のCMソングとなったシングル曲「不思議なピーチパイ」とリリースし、化粧品のCMソングに起用され、大ヒットしました。
当初はアイドル的な仕事が多く、テレビのバラエティ番組など、タレント活動を強いられることが多かったことから思うように音楽活動ができず、1981年、過酷なスケジュールとストレスにより、竹内まりやさんは喉を傷めて入院し、自らの音楽活動を整理をする意味で、休業宣言をします。
翌年の1982年にかねてから交際し、音楽的に大きな影響を受けていた山下達郎氏と結婚し、その後は作詞・作曲家として活動を中心に行います。
1984年、シングル「もう一度」をリリースしてヒットし、同年、全曲竹内まりやさんが作詞・作曲したアルバム『VARIETY』をリリース、このアルバムには、今、世界中で注目を浴びている80年代ポップスの代表曲「プラスティック・ラブ」も収録されており、30万枚以上のヒットを記録しました。
その後も作詞・作曲家の活動を中心に行い、1987年夫の山下達郎氏がプロデュースしたアルバム「REQUEST」はミリオンセラーを突破します。
このアルバムには、名曲で知られる「駅」が収録されていますが、この「駅」という曲は、もともと中森明菜さんのために書いた曲をセルフカバーしたものだそうです。
その後もシンガーソングライターの活動を精力的に続けて、ミリオンセラーを連発します。
1994年には、シングル「純愛ラプソディ」をリリースし大ヒット、この曲は竹内まりやさんのシングル売上第1位となり、竹内まりやさんの代表曲となります。
同年リリースされたベスト・アルバム「Impressions」は売上枚数300万を超える大ヒットを記録し、竹内まりやさんはシンガーソングライターのトップを走り続けていきます。
その後も人気アイドルへの楽曲提供、夫の山下達郎氏の曲の作詞やコンサートにコーラスとして参加するなど、シンガーソングライターとしての活動とともに、様々な音楽活動を繰り広げ、活躍を続けていきます。
そして、2019年には、デビュー40周年を迎えると同時に、長年の功績を認められて、文部科学大臣賞(大衆芸能部門)を受賞されています。
また、音楽活動以外では、2017年に、島根県出雲大社近くにある、実家の老舗旅館の再建のため、自らオーナーとなり、奮闘して、見事再建に成功して話題となりました。
私生活では、娘さんが1人おられて、娘さんはデザイン・イラスト関係のお仕事をされているそうです。
八神純子
生存期間 |
1958年〜 |
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出身地 |
愛知県 |
デビュー時期 |
1978年 |
主なヒット曲 |
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八神純子さんは、ピアノを弾きながら、サンバホイッスルを吹いて歌う独特のスタイルと、クリスタルボイスで一斉を風靡した、シンガーソングライターです。
3歳からピアノを習い、歌が大好きで、高校時代には、「第8回ヤマハポピュラーソングコンテスト」(通称ポプコン)に出場し、「雨の日のひとりごと」、「幸せの時」の2曲同時入賞の快挙を成し遂げ、「第5回世界歌謡祭」にも出場します。
その後、1974年、シングル「雨の日のひとりごと」でプレ・デビューをし、1978年にシングル「思い出は美しすぎて」でプロとして本格デビューを果たします。
しかし、その後リリースしたシングルの売上が伸びず、歌手を辞めて楽曲制作に専念しようとした時、岩崎宏美さんが歌うことを想定して「みずいろの雨」を書き上げ、自ら歌ってリリースしました。
この「みずいろの雨」は「ザ・ベストテン」で取り上げられるなど、テレビ番組の出演をきっかけに、大ヒットとなり、八神純子さんの代表曲となります。
そして1980年に、米ロザンゼルスにてホームステイを体験し、その体験をもとに「パープルタウン ~You Oughta Know By Now~」をリリースします。
このニューヨークの街並みを鮮やかに表現した曲は、JALPAKのCMイメージソングに起用され、大ヒットしました。
1986年に結婚し、その後はアメリカロサンゼルスに住み、アメリカと日本を行ったり来たりして、音楽活動を続けていました。
しかし、、2001年「アメリカ同時多発テロ事件」が起きたことで、八神純子さんは、恐怖のあまり、飛行機に乗ることができなくなり、家族と離れることもままならなくなって、日本での活動を中止してしまいます。
音楽活動から離れて約10年が経ち、2010年にNHKテレビの歌番組に出演し、その翌年に東日本大震災が起きたことをきっかけに、被災者の支援のために日本に帰国、被災地でボランティアやライブ活動、チャリティーイベントなどを行い、被災地を支援しました。
その後、日本での音楽活動を再開し、ライブコンサートなどを開催して、活動を続けています。
私生活では、イギリス人の音楽プロデューサー、後に弁護士となる ジョン・スタンレー さんと結婚し、長女の エマ・スタンリーさん、長男の ノア・スタンリーさんという2人のお子さんがいます。
石川優子
生存期間 |
1958年〜 |
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出身地 |
大阪府 |
デビュー時期 |
1979年 |
主なヒット曲 |
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石川優子さんは、ロマンチックな明るい楽曲で知られ、ルックスのかわいらしさからアイドルとしてタレント活動もしていた、シンガーソングライターです。
幼い頃から地元の少年合唱団や仲間とバンドを組んで音楽活動を行い、1978年に「第16回ヤマハポピュラーソングコンテストつま恋本選会」(通称ポプコン)に出場しています。
「中島みゆき」さんなど、数々の有名アーティストを輩出しているこのポプコンには、円広志さん、チャゲ&飛鳥さんやクリスタルキングさんなどが一緒に出場しています。
1979年に「沈丁花」でプロデビューし、1981年にJALの沖縄キャンペーンCMソングとなった、「シンデレラサマー」が大ヒットして、石川優子さんの代表曲となります。
その後、早見優さんや河合奈保子さんなどに楽曲提供し、順調に活躍しています。
1984年には、チャゲ&飛鳥のチャゲさんと、デュエット曲「ふたりの愛ランド」をリリースし、大ヒットとなり、夏の定番曲、デュエットの定番曲となりました。
また、シンガーソングライターの活動と同時にタレントも行なっています。
1979年に、石川優子さん本人が歌唱した「クリスタルモーニング」がコルゲントローチのCMソングとなり、CMには石川さん自ら出演しています。
加えて、グラビア雑誌に頻繁に登場したり、ラジオのDJとしても活躍していました。
1990年に歌手を引退しましたが、その後も香西かおりさんや荻野目洋子さんなどに楽曲提供を行なったり、DJや映画評論などの活動をされていたそうです。
その後、2016年に「僕らのポプコンエイジ」に出演されています。
ちなみに、趣味はスポーツ観戦で、1996年には、プロ野球の現 埼玉西武ライオンズの応援歌である「吠えろライオンズ」の作詞・作曲をされています。
私生活では、1994年に元マネージャーと結婚し、お子さんが1人います。
まとめ:昭和の女性シンガーソングライターは、名歌手、名曲が揃っている
昭和の時代は、70年代に入り、女性シンガーソングライターが誕生しました。
シンガーソングライターは、テレビなどのメディアに出ない人が一般的でしたので、70年代前半にデビューしたりりィさんや、大貫妙子さんなどは、アルバム発表やコンサート活動を中心に行い、知る人ぞ知る名曲を生み出しました。
その一方で、70年代後半を中心に、五輪真弓さん、渡辺真知子さん、八神純子さん、石川優子さんなどは、積極的にテレビ出演やグラビア雑誌に載るなどして、知名度を広げて、大ヒットするような名曲を生んでいきました。
また、松任谷由実さんや中島みゆきさん、尾崎亜美さん、竹内まりやさんは、多くのアーティストに楽曲提供をして、沢山の名曲を生み出してきました。
いずれにせよ、この令和の時代にも残る名曲が沢山あり、歌唱力がずば抜けた名歌手の方ばかりです。
また、この記事で紹介したほとんどの女性シンガーソングライターの方々が、60歳を過ぎた今も現役で活躍されています。
彼女たちは、きっとこれからも私たちに感動を与え続けていってくれることと思います。