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浦辺粂子の死因は多臓器不全?若い頃や代表作は?鶴太郎のモノマネで人気者に!

昭和時代のおばあちゃん役と言えば、「浦辺粂子」さんを思い浮かべる方も多いことでしょう。

今回は、この浦辺粂子とはどんな女優さんだったのかを解説していきたいと思います。

浦辺粂子と代表作品は?

ここでは、浦辺粂子さんの経歴や代表作品を中心に解説していきます。

浦辺粂子の若い頃の活躍

浦辺粂子(うらべくめこ)さん(本名:木村くめ)は、1902年(明治35年)10月5日、静岡県賀茂郡下田町(現在の下田市)で、臨済宗のお寺の住職をしていた父と、その後妻だった母の間に生まれました。

伯母が東京の明治座で売店を営んでおり、よく演芸雑誌や芝居の絵番付を送って貰っていたこともあり、お芝居が好きな子供でした。

12歳になると父が現在の沼津市の寺に異動したため、沼津に転居し、15歳で私立の沼津女学校に進学しました。

沼津に移ってからは、母と芝居見物のために、度々上京するようになって、ますます芝居に詳しくなり、明治座で松井須磨子の舞台や、子供の頃に夢中だった連鎖劇((無声映画と舞台劇を組み合わせた劇のこと)の影響で、活動写真(映画のこと)の女優になりたいと思うようになりました。

1919年(大正8年)に、女優になろうと決意し、女学校を中退しようとしますが、お寺の住職であった厳格な父親に反対されます。

その時、女優になりたい一心の浦辺さんは、母から父に内緒でお金を借りて家出をします。

この頃、沼津に来ていた奇術の松旭斉天外一座に、さっそく加わり、「遠山みどり」という芸名で全国を巡業しますが、ほとんどタダ働きのような状態でした。

それから、浅草のオペラ小屋・金龍館の舞台に出たり、大阪の浪華少女歌劇団に入団したり、京都の沢モリノ一座などを渡り歩きました。

芸名も、「静浦ちどり」、「遠山ちどり」と変えていきました。

そして、紆余曲折を経て、1923年(大正12年)8月、日活のスタッフに薦められて、日活京都撮影所の女優採用試験を受けて合格します。

撮影所に入社したと同時に撮影所長から、「浦辺粂子」と改名するように言われました。

日活に入社した年に、尾上松之助主演「馬子唄」でデビューし、初めは女中などの端役が多かったものの、日活の現代劇部に移ると、1924年(大正13年)、村田実監督の「お光と清三」、細山喜代松監督の「街の物語」に端役で出演します。

この出演がテストであったため、そのテストに合格し、ついに、村田実監督の「清作の妻」で、ヒロイン・お兼役に抜擢されます。

この「清作の妻」のヒロインのお兼は、
隠居老人の、元お妾(愛人のこと)でしたが、故郷の村に戻り、そこで村の模範的青年、清作の妻の座を射止めます。
日頃、村人から白い眼で見られていたお兼は、夫が再び出征するのを阻止するため、夫の両眼にかんざしを突き刺します。
そして刑務所に行き、出所後に自殺するといった、
破滅的な激しい性格の女性で、大変難しい役どころでした。

このお兼の役を浦辺粂子さんは見事に演じたことで、無名女優から、性格女優・演技派女優として一気に注目を浴びました。

次には「塵境」(1925年、溝口健二監督)に出演、お松役を演じて、古川緑波に「日本にもこれだけ演れる女優がいてくれたか・・・立派な演技である」と最高の賛辞が送られます。

浦辺粂子さんの活躍はとどまることなく、「お澄と母」(村田実監督)、「金色夜叉」(1924年、村田実監督)、「人形の家」(阿部豊監督)など次々と出演して、スター女優としての地位を着々と固めていきました。

女優として順風満帆だった浦辺粂子さんですが、1928年に京都の資産家の息子、上野興一氏と結婚して、一旦は女優を引退します。

しかし、夫婦二人ともギャンブル(競馬)にハマり、それが原因で1年ほどで離婚します。

晩年の浦辺粂子さんの趣味は「競輪・競艇」だったと言いますから、若い時からギャンブルが好きだったことがうかがえます。

離婚後、1930年、再び日活撮影所に入社して、女優業を再開します。

その後は女優一筋で、「唐人お吉」(溝口健二監督)での発狂して死ぬ、お松役、「瀧の白糸」(溝口健二監督)でのお銀という悪女の役など、心理描写の難しい役をこなして、さらに演技に磨きをかけていきました。

浦辺粂子の晩年の活躍

30歳を越えた浦辺粂子さんは、自分の顔にシワができ、若さが衰えたことを悟り、老け役に徹することを決意します。

女優さんの30歳は、まだまだ美しいと個人的には思いますが、ストイックな浦辺粂子さんからしたら、少しのシワも許せなかったのでしょう。

若い女優にヒロインの座を譲り、自分は老け役で女優として勝負しようという、その潔さが浦辺粂子さんらしいと思います。

戦後は、主に母親役やおばあさん役を演じ、所属していた大映映画を中心に出演して、その他の映画会社の作品にも出演するなど、映画には欠かせない脇役として活躍しています。

名匠と言われる映画監督に度々起用されて、女優として高く評価されていた浦辺粂子さんは、60年以上のキャリアの中で、300本以上の映画に出演しています。

そして、時代が映画からテレビへと移り変わっていく中で、テレビドラマにも数多く出演されています。

NHK大河ドラマでは

  • 「赤穂浪士」(1964年)安江役
  • 「太閤記」(1965年)
  • 「獅子の時代」(1980年)平沼松子役  

民放ドラマでは

  • 「木下恵介アワー / 記念樹」(1966年、TBS系)キク役
  • 「泣いてたまるか」(1966年〜1968年、TBS系)
  • 「気になる嫁さん」(1971年、日本テレビ)大杉たま役
  • 「パパと呼ばないで」(1972年〜1973年、日本テレビ)そね役 

その他にも、

「東芝日曜劇場」(TBS系)や「特捜最前線」、
「土曜ワイド劇場」「火曜サスペンス劇場」といった2時間ドラマに
ゲスト出演するなど、多数のドラマに主におばあさん役で出演しています。

※ドラマ「気になる嫁さん」での1シーン

浦辺粂子の映画の代表作品は?寅さんなどに出演

浦辺粂子さんは、多くの映画に出演していますが、あの国民的映画の「寅さんシリーズ」にも出演されています。

浦辺粂子さんが出演している映画「男はつらいよ」、第18作「寅次郎純情詩集」は、全48作ある寅さん「男はつらいよ」のシリーズの中でも、他の作品とは違うパターンの寅さんが描かれていて、個人的に好きな作品です。

いつもは、美しいマドンナに高望みの恋をして振られて、失恋後に旅に出るというパターンですが、この作品は少し違っています。

美しいマドンナに高望みの恋をするまでは同じですが、寅さんの人間味ある人柄と愛が、不治の病で余命いくばくもない薄幸のマドンナ(演者:京マチ子)の心を包んで幸せにするという、寅さんの良さがとてもよく表現されている作品だと思います。

もしマドンナが生きていたら、寅さんは渡世人から足を洗い、彼女と一緒になって、地に足を着けた暮らしをして、幸せになったかも知れないという、希望ある想像をさせてくれるところが、私の好きな理由です。

浦辺粂子さんはこの作品で、マドンナの家の、名家 柳生家に仕える婆やを演じています。

婆やは、人をおだてるのが上手で、明るく、ちゃっかりした憎めない人柄は、浦辺粂子さんそのものであり、味のある存在感たっぷりの演技は、見る人の印象に残ります。

浦辺さんの、ロザリオを首から下げた姿もかわいらしいですね。

マドンナ役の京マチ子さんとは、映画「あにいもうと」(1953年、成瀬巳喜男監督)などで、度々映画で共演している間柄で、この作品でも呼吸のあったお二人の演技が見ものです。

以下、浦辺粂子さんの主な出演作品(映画)を挙げていきます。

浦辺粂子 主な映画出演作品

  • 「清作の妻」(1924年、村田実監督)お兼役
  • 「塵境」(1924年、溝口健二監督)お松役
  • 「金色夜叉」(1924年、村田実監督)お宮役
  • 「お澄と母」(1924年、村田実監督)お澄役
  • 「乃木将軍と熊さん」(1925年、溝口健二監督)熊の女房・お由役
  • 「人形の家」(1927年、阿部豊監督)林田美弥子役
  • 「弥次㐂多」(1927年、池田富保監督)お徳役
  • 「唐人お吉」(1930年、溝口健二監督) お松役
  • 「瀧の白糸」(1933年、溝口健二監督)お銀役
  • 「新雪」(1942年、五所平之助監督)金兵衛の妻役
  • 「生きる」(1952年、黒澤明監督)渡邊たつ役
  • 「稲妻」(1952年、成瀬巳喜男監督)おせい役
  • 「丘は花ざかり」(1952年、千葉泰樹監督)お國役
  • 「雁」(1953年、豊田四郎監督)お常役
  • 「あにいもうと」(1953年、成瀬巳喜男)りき役
  • 「煙突の見える場所」(1953年、五所平之助監督)野島加代役
  • 「野菊の如き君なりき」(1955年、木下惠介監督) 民子の祖母役
  • 「早春」(1956年、小津安二郎監督)北川しげ役
  • 「赤線地帯」(1956年、溝口健二監督)おたね役
  • 「切られ与三郎」(1960年、伊藤大輔)お源役
  • 「私は二歳」(1962年、市川崑監督)おばあさん役
  • 「喜劇 にっぽんのお婆あちゃん」(1962年、今井正監督)ざあまさばあさん・わか役
  • 「ひき逃げ」(1966年、成瀬巳喜男監督)兼松久子役
  • 「乱れ雲」(1966年、成瀬巳喜男監督)三島ぬい役
  • 「恍惚の人」(1973年、豊田四郎監督)門谷家の老女役
  • 「男はつらいよ 寅次郎純情詩集」(1976年、山田洋次監督) 婆や役
  • 「海潮音」(1980年、橋浦方人監督)宇島図世役
  • 「さびしんぼう」(1985年、大林宣彦監督)井上フキ役

鶴太郎のモノマネやCMで人気者、手品も得意

1980年代、お昼に放送していたバラエティ番組、「ライオンのいただきます」(1984年〜1990年、フジテレビ系列)に初回ゲストとして出演して以降、常連ゲストとして出演してブレイクし、おばあちゃんアイドルとして、バラエティ番組などに引っ張りだことなり、人気者になります。

その頃、片岡鶴太郎さんやタモリさんが、浦辺粂子さんのモノマネをしていたことも、浦辺さんの人気に拍車をかけました。(特に片岡鶴太郎さんが有名)

片岡鶴太郎さんといえば、今では俳優や芸術家、ヨガの実践家として有名ですが、1980年代当時は、お笑いタレントとして活躍しており、近藤真彦や具志堅用高などのモノマネを持ちネタとしていました。

それらのモノマネのネタの1つが、浦辺粂子さんの、すぐにネタがバレる手品のモノマネでした。

浦辺粂子さんは、映画女優になる前は、旅まわりの一座で手品をやっていましたので、得意だったのでしょう。
特技である手品を、バラエティ番組で披露していました。

その手品は、すぐにネタがバレる手品だったのですが、それでも一所懸命にやっている姿が、浦辺さんのチャーミングな魅力を感じさせます。

浦辺粂子さんはおばあちゃんアイドルとして人気者になってから、CMにも出演しています。

印象深いものとして、1984年、東海地方を中心に放映されていた「春日井のグリーン豆」、1985年、「森永スナックチョコ つくんこ」のCMです。

特に「森永スナックチョコ つくんこ」のCMは、当時人気アイドルだった柏原芳恵さんと共演していて、2人のやり取りが面白かったのを覚えています。

浦辺粂子さんは、さらに活躍の場を広げて、1984年には、「わたし歌手になりましたよ」で、歌手デビューをします。(当時82歳)

このレコードデビューは、1992年にデビューした「きんさん、ぎんさん」が登場するまで、最高齢のレコードレビュー記録でした。

ドクターコトーの千石規子に似ている?

ドラマ「Dr.コトー診療所」(フジテレビ系列)に、村の元気なおばあさん役で出演している女優さんが、浦辺粂子さんではないかと言われていますが、それは間違いで、その女優さんは「千石規子」さんです。

千石規子(せんごくのりこ)さんは、1922年生まれ(2012年に没)、東京府荏原郡駒沢村(現東京都世田谷区駒沢)出身の昭和時代から平成時代にかけて活躍した、女将さん役、老け役で有名な女優さんです。

千石規子さんは、1936年、小学校卒業後にムーランルージュ(水谷八重子一座)に入団し、その後、芸術座などいくつかの劇団を経て、1947年、東宝に入社、「野良犬」(1949年)、「静かなる決闘」(1949年)、「白痴」(1951年)などの黒澤明監督作品や、成瀬巳喜男監督、小津安二郎監督作品に出演するなど、名脇役として活躍していました。

テレビドラマでは、「江戸を斬る」(1977年、TBS系列)、「くれない族の反乱」(1984年、TBS)「たけしくん、ハイ!」(1985年~1986年、NHK)など、多くのドラマに出演しています。

「Dr.コトー診療所」(2003年〜 2004年)では、村人から頼りにされているお産婆さん、内つる子役を演じていました。

浦辺粂子の死因は?

ここでは浦辺粂子さんの死因は何だったのかを解説していきます。

死因は火だるまでやけどによる多臓器不全

浦辺粂子さんは、不慮の事故が原因で亡くなっています。

1989年(平成元年)10月25日午前7時55分頃、東京都渋谷区にある自宅で、お湯を沸かそうとした時に、着物の袂(たもと)にコンロの火が引火して、火が全身に燃え移り、火だるまとなって、大火傷(やけど)を負ってしまいます。

浦辺さんは助けを求めて、家の外に出て、門扉の辺りで倒れ込みます。

それを隣人が発見して、救急車を呼び、東京医科大学病院に緊急搬送されます。

救急車の中でも、病院に到着した時も意識はあり、「早く帰りたい・・」と話をしていたそうです。

しかし、全身の70%に及ぶ大火傷を負って、重体に陥ってしまいます。

4人の医師が懸命に治療にあたりましたが、その甲斐もなく、翌日の午前0時30分、大火傷による「多臓器不全」で死去されました。(享年87歳)

これは、高齢者の一人暮らしの悲劇ともいえます。

事故当日は、午後から家政婦さんが来る予定だったと言いますから、何と不運なことでしょう。

実は以前にも、一人暮らし故の、危険な状況を経験されていました。

それは、浦辺粂子さんが、今回の死亡に至る事故を起こす3年前の1986年10月のことです。

浦辺さんは、自宅の階段で脚を踏み外して転落する事故を起こしました。

この日は仕事がオフだったため、マネージャーも連絡を取っていませんでした。

そして、このまま3日間も家の中に倒れたまま、誰にも発見されず、放置されることとなるのです。

それを発見したのは隣人の方でした。

隣人の方は、毎朝外へ出てきて、「おはよう」と挨拶してくれる浦辺さんの姿が、ここ2日ほど見えないので不審に思ったとのこと。

そこで浦辺さんの家の玄関を開けてみると、血だらけとなって意識不明で倒れている浦辺さんを発見したそうです。

浦辺さんは頭を20針も縫う大けがをして、2か月ほどの入院を余儀なくされました。

高齢者は入院をして寝ている時間が長くなると、一気に足腰が弱ってしまいます。
入院で環境が変わることも心身ともに弱る原因になります。

浦辺粂子さんも入院したことで以前より足腰が弱ってしまったそうです。

友人の浅香光代さんが心配して、浅香さんの家に同居しませんかと申し出ましたが、頑なに断られたそうです。

所属事務所でも、老人ホームへの入所を勧めましたが、頑なに拒否され、自宅に週何回か家政婦だけでも入れるよう説得をして、ようやく受け入れてもらい、身の回りの世話や、見守りをしてもらっていたそうです。

こうした事故は他人事ではありません。

最近はフリース素材などの、燃えやすい化学繊維でできた服が増えています。

私も以前、カーボンヒーターの電気ストーブを使用していました。

その時は寒いので、半纏(はんてん)を着ていたのですが、ストーブに近づいた時に、ストーブの針金の網状のカバーの間から、半纏の袂(たもと)の端がカーボンヒーターに直接触れてしまい、袂を焦がしたことがありました。

私はまだ高齢者でもないのに、危なく火事になりそうなことが起こるなんて、全く予想していなかったので、とてもショックでした。

体の動きが鈍くなり、目も悪くなる高齢者なら、尚更危険度が高くなりますから、気をつけたいですね。

結局、周囲の心配が現実となり、浦辺粂子さんは不慮の事故で亡くなってしまいました。

もし、浦辺さんの着物に火が燃え移った時に、誰かがそばにいたら、すぐに火を消してもらって、亡くならずに済んだのではないかと考えてしまうのは、私だけでしょうか。

火事で亡くなった芸能人は?

ここでは、浦辺粂子さんと同様に、火事で亡くなった芸能人(有名人)を解説していきます。

村田兆治さん

村田兆治さんは、「マサカリ投法」で有名なプロ野球選手(投手)です。

1949年11月27日生まれ(2022年11月11日没)、広島県豊田郡本郷町(現在の三原市)の出身です。

村田さんは、福山電波工高時代から剛速球投手として広島県内で有名で、甲子園出場の夢は叶いませんでしたが、1967年のドラフトで東京オリオンズ(後のロッテ・オリオンズ)から1位指名で入団します。

1968年の入団以降、初めの頃は成績が伸び悩みましたが、努力の末に確立したマサカリ投法とフォークボールを武器にして、1974年ごろから成績が安定し、1975年、1976年は防御率1位を獲得しました。

1976年には21勝をマークした上に、防御率1.82で最優秀防御率のタイトルを獲得して、パ・リーグを代表する投手となります。

1981年には19勝をマークして最多勝投手となりますが、翌年に右ひじを故障し、戦線離脱、1983年には渡米して、ひじの腱移植手術を受けて、1985年には、17勝を挙げて完全復活します。

1989年に、3回目の防御率1位を獲得し、翌年1990年に2ケタ勝利をマークして引退します。(プロ通算215勝を記録)

引退後もトレーニングを続けて、妥協を許さない人柄が尊敬されており、離島の野球普及に尽力していたことでも有名でした。

そんな素晴らしい野球選手の村田兆治さんでしたが、2022年11月11日、午前3時10分ごろ、東京都世田谷区成城にある自宅から出火します。

村田さんは、意識不明の状態で病院に運ばれ、午前5時57分に死亡が確認されました。

死因は、火事による「一酸化炭素中毒」によるもので、享年72歳でした。

近所の人からの通報を受け、消防隊が駆けつけた時に、2階のリビングが激しく燃えており、同じ階の小部屋で部屋着姿の村田さんが壁などに寄りかかるように床に座った状態で発見されましたが、すでに意識がなかったそうです。

出火当時、奥さんは介護のため実家に戻っており、村田さんはひとり暮らしだったとのことです。

景山民夫さん

景山民夫さんは、小説家、エッセイスト、放送作家、タレントで活躍された方です。

景山民夫さんは、1947年3月20日生まれ(1998年1月27日没)、東京都千代田区出身です。

父は警察官僚の景山二郎氏、母方の祖父は福島県・岡山県知事、衆院議員などを歴任した橋本清吉氏で、由緒ある家柄の家庭に生まれ育ちます。

武蔵高等学校中学校(中高一貫校)を経て、東京芸大を受験しますが、第三次油絵実技試験で不合格となったため、既に合格していた慶応大学文学部に入学しますが、中退して、武蔵野美術大学短期大学部に移ります。

大学時代に知り合った先輩が日本テレビに入社、その人の誘いで局に出入りするようになった結果、放送作家となります。

1968年、放送作家として初めて手がけた「シャボン玉ホリデー」は人気番組になります。

この他に景山民夫さんが手がけた番組は、「11PM」、「クイズダービー」、「タモリ倶楽部」等の人気番組の数々で、多くの番組の構成を担当し、多いときには週12本を掛け持つ売れっ子の放送作家でした。

放送作家と同時に、タレントとしても活躍、「オレたちひょうきん族」や「料理の鉄人」などに出演していました。

作家としても有名で、作家デビュー作となった冒険小説「虎口からの脱出」で、1987年、第8回吉川英治文学新人賞、第5回日本冒険小説協会最優秀新人賞を受賞します。

1988年、「遠い海から来たCOO」では、第99回直木賞を受賞します。この作品が景山民夫さんの代表作になります。

同年の「トラブルバスター」も好評で、のちに井筒和幸監督によって映画化されています。

これ以降は、放送作家の仕事を減らして、文筆業に絞って取り組んでいきます。

1990年に重度の障がい者だった長女さんが、18歳で亡くなり、その際に、娘さんの霊と交信したという経験があったそうです。

その頃に紹介された大川隆法氏の本や講演を視聴することに熱中し、1991年に「幸福の科学」に入信され、1991年に起きた「講談社フライデー事件」には、「講談社フライデー全国被害者の会」の会長に就くなど、熱心に活動していきます。

景山さんは、「幸福の科学」の活動によって、マスコミやテレビなどの世界からは、だんだん遠ざかっていきました。

そんな景山さんでしたが、突然の事故が襲います。

1998年1月26日の深夜、東京都世田谷区成城の自宅で、趣味のプラモデルを製作していました。

その作業を、景山さんは喫煙しながら行っており、接着剤から気化したシンナーに引火してしまいます。

景山民夫さんは、翌日の1月27日、午前1時半頃に死去されました。(享年50歳)

死因は、火傷(やけど)もしくは一酸化炭素中毒と報じられていましたが、詳しい死因は公表されませんでした。

まとめ:戦前から演技派女優として活躍しおばあちゃんアイドルで国民的に愛された浦辺粂子は、大やけどが原因の多臓器不全で亡くなる

浦辺粂子さんは子供の頃からお芝居が好きで、17歳の頃に、女学校を中退して、旅回りの一座に入り、浅草オペラ、少女歌劇団などを経て、1923 年、日活京都撮影所に入社して、念願の映画女優になります。

戦前は性格女優、演技派女優として、演技力を高く評価されて、作品には主役などで出演します。

戦後は、老け役に徹して、母親役やおばあちゃん役で、活躍し、成瀬巳喜男監督、豊田四郎監督、小津安二郎監督、市川崑監督、黒澤明監督など、数々の名匠の作品に出演しています。

1980年代に入ってからは、「おばあちゃんアイドル」としてお茶の間の人気者になり、バラエティ番組などにひっぱりだこになります。

これらの女優やタレントとしての功績が認められて、以下の賞を受賞しています。

  • 1952年:大映賞「稲妻」
  • 1966年:紫綬褒章
  • 1977年:第1回山路ふみ子映画賞 映画功労賞
  • 1984年:ゆうもあ大賞

60年の長い女優業のなかで、著作も4冊を出版しています。

  • 1925年「映画女優の半生」(東京演芸通信社)
  • 1966年「映画わずらい」(共著)(六芸書房)
  • 1985年「浦辺粂子のあたしゃ女優ですよ」(四海書房)
  • 1985年「映画道中無我夢中 浦辺粂子の女優一代記」(河出書房新社)

年齢を重ねても、活躍し続けていた浦辺粂子さんに、引退という文字は微塵も浮かんで来ませんでした。
しかし、浦辺粂子さんの女優生活は、突然に終わりを迎えます。

1989年10月25日、自宅でお湯を沸かそうとした時、コンロの火が着物の袂に燃え移り、全身火だるまとなる大火傷を負って、救急搬送されます。

医師の必死の治療も及ばず、翌日の10月26日、搬送された東京医科大学病院にて、還らぬ人となります。(享年87歳)

女優業一筋、生涯現役を通した浦辺粂子さんは、昭和を代表する名脇役、大女優として、いつまでも私たちの記憶に残っていくこととなるでしょう。

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