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昭和の未解決事件まとめ19選!有名・犯人・解決した事件の謎を解説

昭和時代に起こった未解決事件は、その闇深さと謎めいた真相から、今なお多くの人々を惹きつけてやみません。

今回の記事では、昭和の闇を描き、未解決事件の真相に迫ります。

日本国内で起きた数々の事件を取り上げ、その背後に潜む謎や疑問点を解き明かしていきます。

昭和の未解決事件とは

ここでは昭和時代の未解決事件の特徴を見ていきます。

昭和の社会背景と未解決事件

昭和時代の社会背景と未解決事件には密接な関係があります。

昭和時代は経済的な困難や貧困が広がっており、社会の不安定さが犯罪を引き起こす要因となりました。

また、戦後の混乱や法の整備の遅れも未解決事件の解決を難しくしています。

昭和時代の未解決事件の特徴は、種類の多さと解決の難しさです。

昭和時代には首都圏女性連続殺人事件や三億円事件、赤報隊事件など様々な未解決事件が発生しました。
これらの事件は証拠不十分や犯人の特定が困難など、解決が難しい特徴を持っています。

昭和の未解決事件は社会への影響も大きく、事件の発生による不安感や犯罪の増加などが社会全体に波及しました。

また、未解決事件の解決の難しさから、法律や制度の見直しが求められるようになりました。

現在の昭和の未解決事件の進行状況は様々ですが、未解決のままの事件も多く存在します。

一方で、現代社会では科学技術の進歩や情報の共有が進んでおり、未解決事件に対する取り組みも進んでいます。

平成の「三大未解決事件」との違い

昭和の未解決事件と並んで、日本中を震撼させた「平成の未解決事件」があります。

特に「三大未解決事件」といわれる「世田谷一家殺害事件」「八王子スーパー強盗殺人事件」「柴又・女子大生放火殺人事件」は、犯行の手口が残忍で、いまだに犯人が不明となっており、誰もが忘れられない事件となっています。

まず、「世田谷一家殺害事件」は2000年12月30〜31日未明にかけて、東京都世田谷区で、その家に住む、会社員の父と、母、娘、息子の4人が殺害され、犯人は犯行後、家の中を物色し、冷蔵庫の中の物をその場で飲食した形跡のある不可思議な事件です。

「八王子スーパー強盗殺人事件」は、1995年、7月30日の夜、八王子市内のスーパーマーケット(ナンペイ大和田店)の事務所内で、パート従業員の女性と、女子高生のアルバイト2人の店員が拳銃で撃たれて殺害された事件です。
3人とも至近距離から拳銃で撃たれ、即死状態だったことから、その残忍な手口と、一般市民に拳銃が使われた最初の頃の事件として日本中が震撼しました。

「柴又・女子大生放火殺人事件」は、1996年9月9日、東京都葛飾区柴又で、女子大学生が自宅で殺害され、家が放火された事件です。
被害者の女子大生は事件の2日後、アメリカに留学することになっており、犯人はそれを知っていたのか、それとも偶然かと、様々な憶測が飛び交い、真っ昼間に起きた犯行にもかかわらず、いまだに犯人は捕まっていません。

平成時代は、昭和時代に比べて科学捜査の技術が進み、DNA鑑定など、昭和の時代では考えられないほど鑑識の技術が進化しましたが、これら大きな3つの事件は解決に至っていません。

しかし、「昭和の未解決事件」とこの平成の「三大未解決事件」には、大きな違いがあります。

それは、今も事件の捜査が続いており、これからも犯人が判明すれば、逮捕し、法の裁きを受けさせることができる事です。

これは、2010年に法律が改正され、殺人罪など、人を死亡させた犯罪であって、死刑に当たるものについては公訴時効が廃止されたことによるものです。

時効が廃止されたことにより、事件は終わりがなくなり、いずれの日か解決が可能であるということになりました。

しかしこれは、逆に「昭和の未解決事件」は、全て公訴時効が成立し、たとえ犯人がわかっても、罪には問えない、真相も明らかにされないことを物語っています。

昭和の未解決事件12選の概要と真相

ここでは、昭和の未解決事件の中でも、特に有名な事件や、残忍で謎が多いとされる12の事件を解説します。

三億円事件

「三億円事件」とは、昭和43年12月10日の午前9時20分ごろ、東京都府中市で、日本信託銀行の現金輸送車が、白バイ警官に変装した男に強奪された事件です。

現金輸送車に積まれていた現金は、東芝府中工場の従業員4525人に支給されるボーナス、2億9,430万7500円、約三億円でした。(現在の貨幣価値にすると約10億円)

事件のあらましですが、現金輸送車が走行中に、「白バイに乗った警察官」が突然現れ、車を停止させました。

そして車内の銀行員4人に「この車に爆弾が仕掛けられている可能性がある」と言います。

銀行員4人が車内などを点検していると、(ニセ)警察官が「あったぞ、逃げろ。」と叫びながら、発炎筒を発火させて、投げ出しました。

その火炎と煙を見た銀行員4人は、爆弾と思い込み、慌てて輸送車から離れて避難しました。

(ニセ)警察官はその隙をついて、現金輸送車に乗り込み、車を走らせて逃げていったのです。 

しばらくして騙されたと気がついた銀行員は警察に通報しましたが、犯人はすでに姿をくらましていました。

この事件で、捜査に携わった警察官は延べ17万人以上、捜査費用は9億7,200万円以上となり、日本中が注目した大捜査にもかかわらず、犯人を逮捕できませんでした。

そして、昭和50年12月10日、7年の公訴時効が成立して、未解決事件となりました。

この時効成立の日の新聞は、1面に「三億円事件、時効成立」の記事がデカデカと載りました。

当時、世間はその話題で持ちきりで、子供心にも、大騒ぎだったのを覚えています。

ところで、ボーナスを持ち去られてしまった東芝府中工場の人たちが気の毒だと思った人もいるかも知れません。

実は盗まれた約3億円には保険が掛けられていたので、日本の保険会社から全額が補償されて、事件の翌日には東芝府中工場の従業員にボーナスが全額支給されました。

また、その保険会社も海外の保険会社に保険をかけていたため、補償されて、日本では実害を被った人はいなかったのです。

そのため、誰も傷つけず、金銭的に損をした人がいなかったとして、完全犯罪と美化する声もあります。

しかし、実際は、捜査の中で、捜査員の方が亡くなったり、容疑者として疑われて自殺をした方がいたりと、被害に遭った人はいましたし、この事件の捜査費用に9億7,200万円という税金が投入されたのですから、日本国民全員が被害に遭ったといっても過言ではないでしょう。

この事件はセンセーショナルで、エンターテイメント性のある「劇場型犯罪」の走りとして、小説やテレビでも多く取り上げられました。

事件の真相ですが、犯人は捕まりませんでしたが、有力な容疑者は複数いました。

その中でも犯人として最も有力な説は、事件当時、立川市内で車両窃盗を繰り返した少年たちのグループがあり、その中でも、リーダー格の少年S(当時19歳)の犯行だというものです。

少年Sは、警視庁の幹部である警察官の息子であり、事件の5日後に青酸カリによって自殺したとされています。

しかし、少年Sを知っている人は皆、自殺をするような人ではないと言い、青酸カリは父親が購入したものと言われており、少年Sの家など、少年Sの 周辺から現金は見つかっておらず、謎は深まるばかりです。

そして、犯行当時、犯人の顔を見た銀行員の証言で「モンタージュ写真」が作られ、犯人の顔として、全国に貼り出されました。

大人も子供も、どこへ行ってもモンタージュ写真を見ない日はないというくらいでしたので、そのモンタージュ写真が間違っていたのではないかという、捜査上の問題点が指摘されています。

本来モンタージュ写真というのは、目や鼻、口などパーツごとに、何枚かの写真から一部分ずつを取って1つに合成した写真です。目撃者の証言をもとに、似ているものを集めて合成して作ります。

しかし、この事件のモンタージュ写真は、ある人物の顔写真をそのまま使っており、しかもその人物は、事件の起きる1年前に亡くなっていたというから驚きです。

警察は銀行員の証言から、当初、少年Sを犯人と見定め、少年Sの顔に似ている、すでに亡くなった人物の顔写真をそのまま使っていたことが判明しています。

このことで捜査が混乱したのではないかという見方があります。

その他にも、有力な容疑者はいましたが、証拠不十分で、犯人とは断定されませんでした。

そして、現在も真相は謎のまま、迷宮入りした未解決事件となっています。

下山事件・三鷹事件・松川事件(国鉄三大ミステリー事件)

「下山事件」は、昭和24年(1949年)7月5日、国鉄(日本国有鉄道=現在のJR)初代総裁下山定則氏(同年6月1日就任)が、午前9時半頃、東京日本橋の三越本店へ入ったまま行方不明となり、翌日の6日、0時半頃、常磐線綾瀬駅付近で、轢死(れきし)体となって発見されました。

下山氏の死因をめぐり、他殺説、自殺説の両方の意見が対立し、捜査した警視庁は、他殺とも自殺とも明確にしないまま、事件発生から半年後に捜査本部は閉じられ、そのまま放置されるような形となりました。

この「下山事件」の発生当時の日本は、GHQの占領下にありました。

GHQは、行政機関の職員を整理する政策を進めており、特に赤字経営だった国鉄の大規模な人員整理(リストラ)を行うことを、下山総裁に命じていました。

その数は9万5,000人にものぼるものだったと言います。

これに国鉄労働組合は反発し、絶対反対の立場を決めて、その6月にはストライキをも含む実力行使を行うと決めました。

その直後に、労使の対立から首都圏でストライキが発生し、国労組合員が勝手に運行する「人民電車」が走るような乱れた状態となります。

そんな中、7月に入り、国鉄当局は組合側に、第1次通告として3万700人の解雇を通告したその直後に、この事件が起きました。

この事件は、「死因」について、遺体を解剖した東大法医学教室の意見が「他殺」、東京都観察医務院では「自殺」、慶應大学教授は、遺体の生体轢断を主張して、さらに混乱し、最終的にどちらかは不明になってしまったことや、警察発表も初めは「他殺」、その後「自殺」と発表するなど転々としています。

そして他殺なのか自殺なのか不明のまま、捜査は打ち切られ、昭和39年(1964年)に時効が成立します。

時効成立後も事件に関する資料はほとんどが未発表であり、真相も薮の中になっています。

この「下山事件」が起きたことで、盛り上がりを見せていた国鉄労働組合の反対闘争は出鼻をくじかれ、反対運動の態勢を整える暇もなく、人員整理が実行されてしまい、労働組合の動きは萎んでいきます。
そしてこれが民間側の人員整理にも大きな影響を与えたことになりました。

この事件に関しては、多数の書籍が出版され、映画「日本の熱い日々 謀殺・下山事件」など、映画化、ドラマ化されています。

この事件の真相ですが、事件発生当初、政府は「他殺」と発表し、マスコミは、労働組合やその関係者による暗殺説の報道を流しました。

これに対し、推理小説で有名な作家の松本清張氏は「アメリカ軍の謀略説」を唱えています。

これは事件を起こすことで、労働組合の動きを封じ込め、労働運動の盛り上がりを鎮静化させ、GHQの方針をスムーズに実行させるためのものだったのではないかということです。

また、行方不明当日に、本人を見たという目撃者の証言から、自殺説も出ていました。
大量の人員整理に頭を悩ませていた下山総裁が、追い込まれて死を選んだのではないかという説です。
しかし、自殺説は下山氏をよく知る人々からは、遺書も残さずに自殺はしないと、否定的な意見が出ていました。

いずれの説も確証がなく、現代でもなお真相が掴めない、深い闇を抱えた事件となっています。

この「下山事件」の後、同年の7月15日に「三鷹事件」が発生します。

「三鷹事件」は、7月15日、午後9時23頃、国鉄三鷹電車区から、無人の7両編成の電車が暴走し、三鷹駅の下り1番線に進入した後、車止めにに激突し、そのまま車止めを突き破り、脱線転覆した事件です。

転覆した電車の下敷きになって、6人が死亡し、20人が負傷するという大事故となりました。

捜査当局は、国鉄労働組合員の共産党員の犯行として、共産党員9人と元国鉄労働組合員の竹内景助さんを逮捕し、裁判では竹内さんの単独犯行として、死刑判決が出ました。

竹内さんは死刑判決後も無罪を訴えていましたが、昭和42年に脳腫瘍により獄中で死亡(45歳)しました。

残された証拠や資料から、竹内さんは無実ではないかという見方があります。

その後も竹内さんの遺族は、何度も再審請求をしていますが、棄却されています。

この事件の真相は何だったのかは、不明のままと言えます。

この「三鷹事件」に関しては多くの書籍が出されています。

そしてこの事件が起きた1ヶ月後の、昭和24年8月17日に国鉄東北本線(福島県)で、列車往来妨害事件が起きました。これを「松川事件」といいます。

この事件は、8月17日、3時9分頃、福島県信夫郡金谷村付近の東北本線松川駅〜金谷川駅間を走っていた列車が突然脱線しました。

これによって先頭の蒸気機関車に乗っていた機関士と機関助手2人の、計3人の乗務員が犠牲となりました。

現場検証を行った結果、事故現場付近の線路の継ぎ目部のボルトやナットが緩められて、継ぎ目板が外されていたり、枕木を固定する釘が抜かれていたり、長さ25mものレール1本が外されているなど、列車を脱線させるために、誰かが故意に行ったことがわかりました。

捜査当局は、当時、大量の人員整理に反対した東芝松川工場の労働組合員と国鉄の労働組合員の共謀による犯行として捜査を行いました。
その後、別件逮捕した国鉄の線路工の少年の自白から始まり、次々と国労員や東芝労組員ら合計20人が逮捕・起訴されました。

それから裁判では、無実を証明するアリバイを捜査機関が隠蔽していたなどの問題があり、1審、2審は死刑判決が出たものの、5回の裁判を経て、全員無罪が確定しました。
これにより、「松川事件」は戦後最大の冤罪事件といわれています。

この事件は、昭和33年(1958年)に、「真犯人」を名乗る者からの手紙が、被告弁護団の弁護士の元へ届くなど、不可思議な事件で、多数の書籍化や映画化(1961年「松川事件」など)、演劇化もされています。

推理作家の高木彬光氏は、真犯人は、軍隊経験者、シベリアからの引揚者で、「民主化グループ」に深い恨みを持っており、日本が共産主義に傾くのを恐れ、事件に関与したが、無実の人が死刑になることに良心の呵責を覚え、犯行を告白する手紙を書いたという推理を述べています。

この「松川事件」も、結局真犯人は誰だったのかは、謎のままになっています。

国鉄を舞台に起きた、この「下山事件」「三鷹事件」「松川事件」は謎の部分が多く、この3つの事件は「国鉄三大ミステリー事件」と言われています。

BOACスチュワーデス殺人事件

「BOACスチュワーデス殺人事件」は、1959年(昭和34年)3月10日の午前7時40分頃、東京都杉並区にある善福寺川の下流付近で、3月8日から下宿を出たまま行方不明だった、世田谷区松原に住むA子さん(当時27歳)が水死体で発見された事件です。

A子さんは、英国海外航空(British Overseas Airways Corporation 略称:BOAC)(現ブリティッシュ・エアウェイズ)の日本人女性客室乗務員でした。

当初は自殺と断定されていましたが、翌11日に司法解剖をした結果、扼殺(やくさつ、手で首を締めて殺すこと)の可能性が高いとして捜査が開始されました。

現在、CA(キャビンアテンダント=客室乗務員)といわれている職業を、当時は「スチュワーデス」と称しており、女子の憧れの職業でした。

司法解剖により、被害者の膣内から2つの血液型の精子が発見され、事件直前に複数の男性と肉体関係にあったことがわかり、世間の興味の的となります。

警察が捜査した結果、A子さんの交友関係から、杉並にあるカトリック修道院のV神父が重要参考人として浮上しました。

警察は重要参考人が、外国人のカトリック宗教家であることから、極秘に捜査をしていましたが、NHKのドキュメンタリー番組がきっかけで、マスコミに漏れてしまいました。

それからV神父は、弁護人とバチカン大使館一等書記官の立会いのもとで、5回の事情聴取を受けましたが、6回目の事情聴取を前にして、病気療養を理由に、ベルギーへ出国してしまいます。

警察は、V神父が正規の出国手続きを行なっていることを把握していましたが、外交的な措置を求めるだけの確実な証拠を提示できず、神父の出国が許可される結果になりました。

その後、重要参考人の神父が出国し、事件の解明が進んでいないとして、衆議院の法務委員会で、警視庁刑事部長ら幹部が事件捜査に関する説明を求められるなど、国会でも取り上げられました。

しかし捜査は進まず、事件は未解決のまま、昭和49年(1974年)3月10日に公訴時効を迎えます。

事件の真相は藪の中ですが、有力な説は、やはり、V神父の犯人説です。

A子さんとV神父は大変親しい仲にあり、肉体関係もあったのではないかといわれています。

カトリックの神父が異性と交わることは禁止されていますので、A子さんとの交際を続けることはV神父にとっては、立場上追い込まれる結果となり、犯行に及んだのではないかといわれています。

警察は犯行現場で白い車が目撃されていて、V神父の自家用車と同じ車種の車と確認しており、神父は、車のタイヤ痕から捜査の手が自分に及ぶことを恐れてか、タイヤを全て交換しているなど、怪しい点がありました。

この事件は「三億円事件」と並んで、「昭和の二大未解決事件」として、注目を集めました。

それと同時に、小説のモチーフや映画などにもなりました。

推理作家の松本清張氏の「黒い福音」や、「殺されたスチュワーデス 白か黒か」(1959年、猪俣勝人監督)などがあります。

首都圏女性連続殺人事件

「首都圏女性連続殺人事件」は、昭和43年(1968年)から昭和49年(1974年)にかけて、千葉県、埼玉県、東京都の首都圏で多発した連続女性暴行殺人事件です。

事件の概要は、1人暮らしの女性(被害者の多くは20代の若い女性)が深夜に襲われ、強姦された上で殺害されるというもので、現場に残っていた加害者の体液がO型の場合が多く、暴行後に焼殺、あるいは絞殺して遺体を造成地に埋めるという似た犯行の手口から、同一人物による犯行と見られていました。

この時代は、まだオートロックのマンションはなく、賃貸物件の多くは木造アパートで、セキュリティにかなりの問題がありました。
防犯カメラもない時代なので、女性の1人暮らしは、今では考えられないほど危険が多かったのです。

そして、昭和49年(1974年)9月12日、元建設作業員のO(当時37歳)が、千葉県警松戸警察署に窃盗で逮捕され、その後、「松戸OL殺人事件」の殺人容疑で逮捕されます。

「松戸OL殺人事件」とは、昭和49年(1974年)7月3日、千葉県松戸市の信用金庫に勤めるOL(当時19歳)が行方不明となり、8月8日、宅地造成地より遺体が発見された事件です。

この元建設作業員のOには、窃盗・詐欺・住居侵入・傷害などの前科があり、8回逮捕され、合計13年間服役したことがあり、アパートにも数回放火をした前歴がありました。

また、「O」の血液型はO型であり、数年前、東京都内のアパートに侵入し、そこで寝ている女性を強姦しようとした事件を起こしている、定住しておらず、事件の時のアリバイがないなど、犯人と思しき状況証拠がいくつかありました。

「O」が逮捕されたことで、マスコミは、「松戸OL殺人事件」以外の、一連の首都圏女性連続殺人事件の犯人も「O」であると大々的に報道します。

この「O」という人物は、一連の首都圏女性連続殺人事件の犯人といえるほど、かなり疑わしい部分があったのも事実です。

「O」が関わったのではないかとされる事件は以下のとおりです。

  • 昭和43年(1968年)7月13日、東京都足立区の空き地で26歳のOLが暴行の上、焼殺された。事件の数日後、「O」が犯人だと密告電話が入るが、物証がないため逮捕できなかった。
  • 昭和48年(1973年)1月26日、北区のアパートで就寝中の22歳のOLが絞殺されて放火された。事件発生2日前に事件現場近くを深夜、バールを持って歩いていた「O」が逮捕された。
  • 昭和49年(1974年)6月25日、松戸市在住の30歳の主婦が失踪。8月10日に同市内の造成地で絞殺体で発見された。
  • 同年7月3日、松戸市の信用金庫OL(19歳)が行方不明となり、8月8日、宅地造成地より遺体が発見された。→「松戸OL殺人事件」(今回逮捕された事件)
  • 同年7月10日、松戸市内のアパートで21歳の教師が暴行の上、焼殺された。現場近くで「O」が目撃された。その後、殺人罪で立件された。

この他に5件の事件に関わったとされており、合計10件の事件に「O」が関与した疑いがありました。

この10件の事件のうち、昭和49年7月14日、葛飾区で48歳の料理店経営の女性と58歳の店員女性が暴行された上、焼殺された事件がありましたが、別の真犯人が逮捕されて、解決しています。

また、昭和49年8月9日、埼玉県志木市内のアパートで21歳のOLが暴行の上、焼殺された事件は、後のDNA鑑定で、犯人の血液型がA型またはAB型であることが判明し、「O」の関与は否定されています。

「O」は「松戸OL殺人事件」で逮捕された後、一旦は釈放されますが、自白によって被害者の持ち物の場所等、犯人しか知り得ない情報を知っていた事、犯人が残した遺留物の血液型と一致した事等で、昭和50年(1975年)3月に起訴されました。

その頃、「O」は「絶対に殺しはやっていない」と言い、冤罪を訴えたため、長谷川健三郎氏らを中心に「Oさん救援会」が組織され、弁護士や文化人、宗教家などが、支援活動を繰り広げていきました。

昭和61年(1986年)9月、第1審の千葉地裁では、「O」に無期懲役の判決が下ります。

1991年4月、第2審の東京高裁は、弁護人らが主張する、自白は警察の強制、誘導、拷問によるもので信用性がないという訴えを踏まえて、自白は信用性が乏しいとして、無罪判決を出し、確定しました。
そして「O」は16年ぶりに釈放されて、刑事補償金、総額約3650万円を受け取っています。

その後、「O」は冤罪のヒーローのように扱われ、自身も著書「でっちあげー首都圏連続女性殺人事件」を出版したり、講演を行なったりしていました。

無罪判決が出た5年後の1996年、1月「足立区首なし女性焼殺事件」が発生します。
この事件は、足立区の駐車場で、女性の首がなく、陰部が切り取られた焼死体が発見された事件です。

後日、被害者の女性(当時41歳)は「O」と同居していたことがわかり、「O」の家の裏庭から女性の頭部が発見される、被害者に付着していた体液のDNAが「O」と一致するなど、確実な証拠が揃い、「O」は逮捕起訴されました。

「O」はこの事件で逮捕される前の4月、5歳の女児に性的暴行と首を絞めた殺人未遂の容疑で逮捕されています。
この逮捕がきっかけで、「足立区首なし女性焼殺事件」の犯人だと発覚しました。

「O」は犯行を認めて、1999年2月に裁判で無期懲役が確定しています。

この「足立区首なし女性焼殺事件」以降、「松戸OL殺人事件」をはじめとする、首都圏連続女性殺人事件も「O」がやったのではないかとの疑惑が浮上しました。

弁護人だった、野崎弁護士は、「弁護人としては当時口が裂けても言えなかったが、(松戸事件の)一審の途中から「O」を疑い始めていた」と告白し、弁護士会から戒告処分を受けています。

「首都圏連続女性殺人事件」は、葛飾区で2人の女性が暴行・焼殺された事件で犯人が逮捕された以外は、犯人は捕まっておらず、公訴時効が成立し、未解決事件となっています。

「O」という人物がかなり疑わしいと言われていますが、少なくとも「松戸OL殺人事件」の裁判は確定しており、一事不再理の原則から、罪に問うことはできず、真相は闇の中となっています。

金大中事件

「金大中事件」は、昭和48年(1973年)8月8日、韓国の元大統領候補、金大中(キム・デジュン)氏が、白昼、宿泊していた東京・千代田区の「ホテル・グランドパレス」から、複数の韓国人により拉致され、その後、行方不明となった事件です。

金大中氏は、事件発生から5日後の、8月13日になって、韓国ソウル市内にある自宅近くのガゾリンスタンドで開放されて、自力で自宅に戻りました。

この事件は当時、連日新聞やテレビが取り上げて大騒ぎだったのを子どもながらに覚えています。
日本ではキム・デジュン氏のことを、日本読みで「キンダイチュウ」氏と呼んでいました。

この事件は韓国の政治事情が大きく影響しています。

当時の韓国は、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領における軍事政権の下、当時、韓国の反政府・民主化運動が高まりつつありました。
そのリーダー格だった金大中氏は、1971年の大韓民国大統領選挙で新民党(当時)の正式候補として立候補しました。
結果は、現役大統領の朴正煕氏にわずか97万票差で敗れましたが、少差での敗北だったため、朴大統領政権は、民主化への高まりに危機感を覚えます。

1973年、朴の側近で、朴の後継者と名高い、李厚洛(イ・フラク)中央情報部長がいました。
首都警備司令官、尹必鏞(ユン・ピリョン)将軍は朴大統領との談話中、尹必鏞が「高齢なので、引退して後継者を・・」と口を滑らせたことで、朴大統領を怒らせてしまい、尹必鏞と李厚洛、その関係者も拘束されて調べられました。
その後、李厚洛は釈放されましたが、尹必鏞は、汚職容疑などで処罰されました。

この事件によって、李厚洛は、朴正煕大統領の信頼を回復しようと、敵陣の金大中氏の暗殺を企てたといわれています。

その頃、金大中氏は民主主義の活動家として世界でも有名になっていました。
金氏が海外滞在中の1972年10月に、朴大統領は「非常戒厳令」を発令したため、金大中氏は、国外へ亡命したような形となり、韓国へ戻れなくなっていました。

1971年の大統領選直後から、交通事故に見せかけた暗殺事件があり、金大中氏は大怪我をして、体に障害が残りました。
それから金氏は、度々命を狙われるようになります。

このような情勢を背景に、「金大中事件」は起こりました。

金大中氏は、自民党左派の宇都宮徳馬氏らに講演するために招待され、東京を訪問していました。金氏は日本でも在日韓国朝鮮人のヤクザに命を狙われており、亡命者として、日本人の偽名を名乗り、ホテルも2〜3日ごとに変えていました。
日本に滞在中は、日本政府が身柄を保護するような形となっており、金氏の日本入国の際の身元保証人欄に、当時の大平外務大臣のサインがあったといいます。

事件の真相は、8月8日、グランドパレスホテルで、麻酔薬を嗅がせて金大中氏は拉致されて、目隠しをして、体を鎖で縛られたまま、車で神戸にある犯人のアジトへ連れて行かれ、大阪港に移動、そこから龍金号という韓国の工作船に乗せられ、金大中氏は足に錘をつけられて、海に投げ込まれようとしたのです。

金氏が海に投げ込まれようとした、まさにその時、拉致事件を察知した日本政府が、海上保安庁のヘリコプターを飛ばして、拉致船を追跡し、照明弾を投下するなどして威嚇したため、実行犯は、日本政府に拉致の事実が発覚したことを悟り、暗殺を断念して、事件の5日後に金氏を韓国へ戻したのでした。

この拉致事件を警視庁が捜査したところ、金東雲・駐日本国大韓民国大使館一等書記官の指紋が出て、関与が明るみになったので、出頭を求めたところ外交特権で拒否され、結局、外交特権により、金東雲書記官は韓国へ帰国してしまいました。

その後も、韓国政府は「金書記官は事件には無関係」との態度を貫き通したため、事実関係をめぐる両国の主張は、平行線になっていました。

当時日韓関係は、国交が正常化されたとはいえ、必ずしも良好なものではなかったため、このままでは両国関係は深刻な外交的亀裂を生じる可能性もありました。

同事件について、日本政府は主権侵害に対する韓国政府の謝罪と、日本捜査当局による調査を要求していましたが、1973年11月の金鍾泌(キム・ジョンピル)首相(当時)の訪日と1975年7月の宮澤喜一外相(当時)の訪韓で政治決着を図りました。

韓国政府は、その後も国家機関の関与を全面否定していました。

そして、2006年7月に韓国政府は、KCIA(韓国中央情報部)の組織的犯行だったとし、国家機関が関与したことを初めて政府として認めました。
日本国内では韓国人ヤクザのM(山口組系東声会会長)が、協力していたこともわかっています。

日本と韓国の2つの国を巻き込んだ闇の深い、未解決事件と言えます。

グリコ・森永事件(小説「罪の声」のモチーフ)

「グリコ・森永事件」とは、昭和59年(1984年)と昭和60年(1985年)に大阪府や兵庫県を主な舞台として、食品会社をターゲットにした一連の企業脅迫事件です。

脅迫のターゲットにされた企業は、江崎グリコ、丸大食品、森永製菓、ハウス食品、不二家、駿河屋です。

事件発生地域が複数の都道府県にまたがるため、警察庁広域重要指定114号事件と言われています。

事件の概要ですが、昭和59年(1984年)3月、江崎グリコ社長の江崎勝久氏が、自宅から入浴中に全裸で誘拐されて、身代金現金10億円と、金塊100キログラムを要求する脅迫状が犯人から送られてきます。
犯人は「かい人21面相」を名乗っていました。

そして事件発生の3日後の3月21日、14時30分ごろ、国鉄(現在のJRグループ)大阪貨物ターミナル駅の職員から110番通報を受けた大阪府茨木警察署によって、江崎氏が保護されました。

江崎氏の証言によると、大阪府茨木市の東海道新幹線車両基地近くの水防倉庫に監禁されており、そこから自力で逃げ出し、近くの大阪貨物ターミナル駅構内へ駆け込み、無事に保護されたそうです。

江崎氏が戻ってからも、犯人からは、現金1億2000万円など、度々金銭の要求や、グリコ本社に放火をするなど、次々と脅迫行為が続きました。

そして、この「かい人21面相」を名乗る犯人の大きな特徴は、マスコミに「挑戦状」、企業に脅迫状などを送りつけていたことです。

金銭要求など、グリコへの強迫行為の最中、4月8日、犯人グループから毎日新聞とサンケイ新聞(当時)に初めての挑戦状が届けられました。
差出人は江崎勝久社長の名前になっていましたが、内容は「けいさつのあほどもえ……」とタイプ打ちした一枚の紙に、警察を挑発するような文章が書いてありました。

専門家の鑑定の結果、犯人のものと判明したため、新聞は、翌日の朝刊一面で全文を掲載しました。

これ以降も、犯人グループは挑戦状や脅迫状を送り続け、その数は140通を超えるという異常さでした。

同じ年の昭和59年(1984年)5月10日に毎日新聞、読売新聞、サンケイ新聞、朝日新聞の4つの新聞社に、かい人21面相から「グリコの せい品に せいさんソーダ いれた」という挑戦状が届きます。

さらに挑戦状には、全国にばらまくとの予告があり、挑戦状の終わりには「グリコを たべて はかばへ行こう」とまで書かれていました。
この事態を重く見た大手スーパーは、グリコ製品の撤去を始め、店頭からなくなりました。

しかし、このときは実際に青酸入りの製品が発見されたり、青酸入りの製品が送り付けられたりすることはありませんでしたが、その脅迫文のインパクトは強烈で、日本中がグリコ製品を避けるようになります。

その後、犯人グループは、ターゲットを丸大食品に移し、昭和59年(1984年)6月22日、大阪府高槻市の丸大食品に脅迫状が届きました。
内容は「グリコと同じ目にあいたくなかったら、5千万円用意しろ」というものでした。

6月28日、夜8時ごろ、現金の受け渡しに関して、犯人から電話がかかってきました。
女性の声の録音で「高槻駅前の看板に指示書が貼り付けてある・・」との内容でした。

丸大社員になりすました刑事は高槻駅へ行き、そこで指示された電車に乗りますが、刑事らが乗った同じ電車の近くに、不審な「キツネ目の男」を発見します。

刑事らはその「キツネ目の男」が怪しいと思いますが、捜査本部の指示で、接触しないように言われて、結局その男を逃してしまいました。

後にこの「キツネ目の男」は、ハウス食品の事件でも、名神高速道路の大津サービスエリアなどで捜査員に目撃されており、犯人グループの一人と断定されて、似顔絵が作成され、一般公開されて全国に広く周知されるようになります。

その後も、脅迫文が届き、子供の声の電話で現金の受け渡し場所を指定、その他の要求を指示してくるなど、強迫行為が続きましたが、犯人を捕まえられませんでした。

ここでまた1つ、犯人・犯行の特徴を挙げると、現金受け渡しなど、電話で要求を伝えてくる際に、女性や子供の声をテープに録音し、それを流すというものです。(昭和の当時、録音といえば、カセットデッキの機器を使用し、カセットテープに録音し、音を再生するのが一般的でした。)

女性の声は30〜40代くらいのもので、子供の声は小学校低学年くらいと分析されましたが、再鑑定の結果、女性の声は10代半ばの少女の声と判明したのです。

犯人グループの中に子供が複数いる、(子供が巻き込まれている)ことがわかり、この犯人らの狡猾さ、闇の深さに、捜査陣、関係者は凍りついたと言います。

子供は声変わりをして、声の主を割り出すには時間がかかり、足がつきにくいことを見越して、犯人は子供の声を利用したようです。

おそらく、声の主の子供は、意味もわからず、大人に言われるままに文章を読んだのでしょう。
疑うことを知らない子供を、犯罪に利用するという卑怯なやり方は、許されるものではありません。

脅迫文といい、子供の声を利用するところといい、犯人は知能の高い頭脳派のリーダー、江崎グリコ社長を誘拐した実行犯、キツネ目の男、そして電話の声の子供たちが犯人グループと見られました。

ところで、2番目に起きた丸大食品への脅迫事件は、マスコミに漏れなかったため、ターゲットが丸大食品の次の森永製菓に移るまで、マスコミは情報を掴んでいませんでした。

そのため、同年9月、森永製菓が脅されたことを毎日新聞がスクープした時に、丸大食品の事件は公になっていなかったので、恐喝された企業としては3社目ですが、「グリコ・森永事件」と呼ばれるようになったのです。

森永製菓関西販売本部に、数千万円を要求する脅迫状が届いたのは、昭和59年(1984年)9月12日の朝した。

脅迫状には「グリコと同じめにあいたくなければ、1億円出せ」「要求に応じなければ、製品に青酸ソーダを入れて 店頭に置く」と書かれており、青酸入りの菓子が同封されていたといいます。

森永は警察に通報し、「かい人21面相」との全面対決を宣言します。

それに怒りをあらわにした犯人からの脅迫文が届きます。

「森永の どあほどもは
テープと 青さんソーダの かたまりと 青さんいりの かし
おくったのに 信じへんで けいさつえ とどけおった
わしらに さからいおったから 森永つぶしたる
青さんいりの かし 50こ よおい してある」

そして、犯人グループは実力行使へと出ます。

昭和59年10月7日から10月13日にかけて、大阪府、兵庫県、京都府、愛知県にあるスーパーやコンビニから、次々と不審な森永のお菓子が見つかっていったのです。

不審なお菓子は、「どくいり きけん たべたら しぬで かい人21面相」と書かれた紙を貼って置かれており、お菓子の中には、実際に青酸ソーダが混入されていました。

青酸入りのお菓子は13個発見されており、この間、阪急百貨店などに、「わしらに さからいおったから 森永つぶしたる」といった文章で、森永の商品を置かないように要求する脅迫状が届きます。

このように、実際に青酸入りのお菓子がばら撒かれたことで、森永の商品はスーパーなど、あらゆる小売店から撤去されることになります。

これによって森永製菓は売り上げが下がり、対前年比9割の減産に落ち込んだと言われています。

その後犯人グループは、ハウス食品、不二家、駿河屋と脅迫文を送り、金銭を要求する脅迫を続けていきます。

そして、昭和60年(1985年)8月12日、犯人から、「くいもんの 会社 いびるの もお やめや」との終息宣言が送られてきました。

その理由として、ハウス食品事件で不審車両を取り逃がした滋賀県警本部長が、5日前の退職日(8月7日)に焼身自殺をしており、その香典の代わりというものでした。

日本中を震撼させたこの大事件が終わったこの日、皮肉にも同じ日の夕方、日本航空123便の墜落事故が起きたのでした。

この事件の捜査に関わった捜査員は延べ130万人以上、捜査対象は12万5千人という大捜査にも関わらず、犯人は逮捕されずに時は過ぎ、2000年(平成12年)2月13日に、類似事件だった東京・愛知青酸入り菓子ばら撒き事件の殺人未遂罪が時効を迎えて、すべての事件の公訴時効が成立し、警察庁広域重要指定事件としては初めての未解決事件となったのです。

犯人グループは、誘拐や脅迫文を送り、金銭を要求していますが、現金お受け渡し場所には来なかったりなど、実際に金銭を渡した企業はなかったそうです。

では、一体犯人像は?犯行の動機や目的はなんだったのか?

これに関しては、この「グリコ・森永事件」をモチーフにした小説「罪の声」を読むと見えてくる、と個人的に思います。

小説「罪の声」は、塩田武士のサスペンス小説で、2020年10月30日に公開された映画(土井裕泰監督)でもあります。

作者の塩田氏は、事件の脅迫電話に子どもの声が使われた事を知り、自分と同年代でもあるその子どもの人生に関心を抱いて、これを題材にして小説にしたといいます。

塩田氏はこの事件を丹念に調べて、小説はフィクションではあっても、各事件の発生日時、犯人による脅迫状・挑戦状、事件報道は、なるべく史実通りに再現したそうです。

そのためか、犯人像や犯人の動機が、実際の事件の犯人像や動機にかなり近くなっていると言えます。

犯人像や犯人の動機の有力な説として、

  • 企業の評判等を落として、株価操作を図り、莫大な利益を得ようとした仕手グループの犯行説、
  • 警察に恨みを持ち、社会を変革しようとした、左翼過激派グループの犯行という説、
  • 元暴力団組長のグループが関わっている説  

などがありますが、「罪の声」では、これらをうまく網羅した犯人像を作り上げています。

この他に、実際の事件では、

  • 元グリコ関係者で、グリコに恨みを持つものの犯行説、
  • キツネ目の男に似ていて、警察と敵対した過去があり、借金を抱えていた作家のM氏が犯人説、
  • 当時頻発していた北朝鮮の拉致事件の操作撹乱を目的とした、北朝鮮工作員グループの犯行説、

などがありますが、結局、いまだに真相は謎のままの未解決事件です。

この頃の自分の行動を思い起こしてみましたが、この「グリコ・森永事件」以来、私はグリコのお菓子を買わなくなりました。

昭和60年に一連の事件は終結したのですが、グリコは買わない、という習慣がついてしまうと、その習慣が抜けなくなって、それから再びグリコのお菓子を買うようになったのは、平成の時代に入ってからでした。
これは約5年もの間、グリコの商品を買わなかったことになります。

私の場合は極端な例だと思いますが、買わなかった期間はまちまちでも、私のようにグリコの商品を買い控えた人は、割りと多かったのではないでしょうか。

企業にとって、消費者の信頼を損ねるということは、大きな打撃であり、信頼を取り戻すのは大変なことです。

もしかしたら、犯人の狙いは、これだったのかも知れませんね。

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青酸コーラ無差別殺人事件

「青酸コーラ無差別殺人事件」は、昭和52年(1977年)1月4日から2月半ばまで東京都・大阪府で発生した無差別殺人事件で、青酸化合物入りのコカ・コーラを拾って飲んだ、高校生、会社員らが死亡しました。
毒入りコーラ事件とも呼ばれています。

第1の事件は、昭和52年1月4日、午前1時すぎに、男子高校生が宿舎に置いてあったコカコーラを飲んだところ、男子高校生は「このコーラ、腐ってる」と言って、すぐに吐き出して口の中をすすぎました。

しかし、男子高校生は、その後突然倒れてしまい、意識不明の重体となり、直ちに病院に運ばれましたが、救急処置の甲斐もなく、間もなく死亡しました。
死因は青酸中毒だったといいます。

この青酸入りのコカコーラは、事件前日の1月3日、午後11時半ごろ、男子高校生とその同僚が、東京・国鉄品川駅近くの公衆電話ボックスに置かれていた未開封(しっかりびんの栓は閉まっていた)のコカコーラを拾って、宿舎に持ち帰ったものでした。


第2の事件は、1月4日の午前8時15分ごろ、第1の事件の青酸コーラが置かれた電話ボックスから約600m離れた歩道上で、作業員(当時46歳)が倒れているのが発見されました。
その後病院に運ばれましたが、死亡が確認されました。
死因は第1の事件と同じ青酸中毒でした。

男性が倒れていた場所の近くで、男性が開栓したコーラのびんが見つかりましたが、びんに残っていたコーラから、青酸反応が検出されました。

これにより、警察が周辺を捜索した結果、同じ日の午後0時すぎごろ、作業員がコーラを拾った場所から約600m離れた、ある商店の赤電話に青酸入りのコーラが置かれているのを発見しました。

実は、警察が青酸入りコーラを発見する前に、その商店の息子(当時15歳)が見つけて、用事を済ませた後で飲もうとしていたことがわかり、この場合は、間一髪で被害から逃れたといいます。

第3の事件は、東京での事件から約1ヶ月後、2月13日午前6時20分ごろ、大阪府藤井寺市に住む会社員の男性(当時39歳)が出勤途中に立ち寄った酒屋の公衆電話に、コーラのびんが置かれているのを発見し、同僚に止められたにもかかわらず、それを飲んでしまい、意識不明となり病院に運ばれました。

会社員が飲んだコーラの瓶からは青酸反応が検出されました。
男性は一命を取り留めましたが、退院した翌日に、自宅で自殺を図って亡くなりました。


第4の事件ではないかと言われるケースですが、2月14日、東京駅の八重洲地下街で、紙袋に入った40箱のチョコレートが発見され、それにも、青酸化合物が混入されていました。
この時は、発見者が中身に手をつけずに警察に届けたため、被害はありませんでした。

その後も神田駅のトイレに置かれていた、青酸入りチョコレートを拾って食べた男性が、意識不明となり、病院に搬送されるなど、毒入りのチョコレートが置かれるケースがいくつかありました。

警察は一連の事件について、同一犯の可能性が高いと判断し、総勢65人の捜査員を動員して、現場周辺の聞き込み、指紋採取を行い、青酸化合物を入手しやすい、メッキ工場などの塗装業・加工業者を当たり、コーラのふたの製造ナンバーから製造元の割り出しなどの捜査を行いましたが、犯人を特定できず、事件は謎を多く残したまま、1992年(平成4年)1月4日午前0時をもって公訴時効が成立しました。

この事件以降、自動販売機の飲料は、一度開けたら元に戻せないプルトップ式の缶が主流になりました。
瓶入りの飲料も、一度開封すると封印のためのリング状の部分がちぎれて取れる構造(スクリューキャップボトル)が採用され、開封済みか未開封かがはっきりわかるように改良されました。

また学校などでも「拾ったものは口にしない。たとえ栓がしてあるものでも、飲んだり食べたりしてはいけない」ということが盛んに教えられるようになりました。

この令和の時代では、外で拾った食物を、飲んだり食べたりすることは非常識なことで、ほとんどの人はやらないでしょうが、戦後の食糧難を通ってきた昭和の時代は、「食べ物を粗末にしたらいけない」という感覚が普通にあり、拾ったものを食べる人も結構いたのです。

それを見越して犯人は、若者や子供が好む、コカコーラやチョコレートに青酸化合物を仕込み、街のあちこちに置いたのでしょう。

誰でも被害者になりうる「無差別殺人」は、この事件の頃から増えていった印象があります。

その後「グリコ・森永事件」や「パラコート連続毒殺事件」といった模倣犯が出てくる要因になった事件として、社会に大きな恐怖と影響を与えた、大変罪深い未解決事件と言えるでしょう。

パラコート連続毒殺事件

「パラコート連続毒殺事件」とは、昭和60年(1985年)4月30日から11月24日の間に全国各地で連続発生した無差別毒殺事件です。

何者かが農薬(除草剤)のパラコートなどを飲み物(清涼飲料水)に混入させて、それを飲んだ13人が死亡しました。

犯行の手口は、自販機の商品受取口へ、まるで取り忘れかのように放置されたドリンクを置いておき、「取り忘れの商品を見つけてラッキーだ」と思う人の心理をついた犯行で、実際、取り忘れだと思われる商品を飲んだ人が相次いで亡くなっています。

毒入りの飲み物の置き場所は、取り出し口が最も多かったですが、「自販機の上」や「自販機の下」に置いてあるケースもありました。

この事件は先に述べた、「青酸コーラ無差別殺人事件」の模倣犯が起こした事件と見られています。

この「青酸コーラ無差別殺人事件」を受けて、自動販売機の飲料は、一度開けたら元に戻せないプルトップ式の缶が主流になり、瓶入りの飲料も、一度開封すると封印のためのリング状の部分がちぎれて取れる構造(スクリューキャップボトル)が採用され、開封済みか未開封かがはっきりわかるように改良されていったのですが、まだ完全に缶や瓶のキャップが改良済みとなっておらず、移行期に起きた事件だったといえます。

事件が起きた地域は、広島県、大阪府:3件、三重県、福井県、宮崎県、埼玉県:3件、奈良県、宮城県、石川県、となっており、全国バラバラの地域で起きていて、都市部よりも地方が多いのが特徴となっています。

混入された清涼飲料水は、「オロナミンC」6件、「コカ・コーラ」2件、「リアルゴールド」2件、不明2件でした。
混入毒物はほとんどがパラコートで、、1件のみ別の除草剤であるジクワットが使用されていました。

当時は、毒物といえども、除草剤は、18歳以上で、印鑑があれば農協などで買うことができました。

私の家は農家だったので、家には除草剤など農薬が身近にありました。
ですから、農村地帯のような地域であれば、どの家にも置いてあったと思いますし、除草剤を買ったからといって、特別不審に思われることもありませんでした。

しかし、除草剤の毒性が恐ろしいことは、農家の人ならよく知っていたでしょう。

私が子供の頃に親から聞いた話ですが、
近所のおじさんが、除草剤を散布するために、希釈しようとして、桶に除草剤と水を入れた後、かき混ぜる棒がなかったので、一緒に作業していた人が止めるのも聞かず、桶に手を突っ込んで、腕を棒の代わりにして、かき混ぜたのです。

そのおじさんは、最初は「平気だ。」といっていたそうですが、しばらくして、具合が悪くなり、その場に倒れ込んだと言います。

一緒にいた人がすぐに病院に連れていってくれて、命には別状なかったそうですが、処置が遅れていたら、どうなっていたかわからなかったといっていました。

それだけ除草剤をはじめとした殺虫剤などの農薬は、使い方を誤ると危険です。

事件を受けて、昭和61年(1986年)2月、厚生省と農林水産省は、除草剤の販売時の記名において身分証明書の提示を求めることに合意しました。(現在、身分証明書の提示がないと購入は不可)

また、同じ頃、ジクワットとの混合製剤が発売されるなど、メーカー側も対処に当たるようになり、パラコートによる中毒事故は減少したそうです。

ただ、その後も、パラコートは特に毒性が強く、飲むと死に至る確率が高いため、これによる自殺や殺人等が後を絶たず、社会問題となったため、1999年に製造が中止されました。

そして、この事件は、これといった物証もなく、当時は防犯カメラもなかったので、犯人は分からずじまいで、すべて2005年に公訴時効が成立し、未解決事件となっています。

この事件における、模倣犯(東京で発生)や、事件と見せかけて自殺するなど、自作自演の事件(大阪、福井、群馬などで発生)もいくつか起きており、社会への影響は大きかったといえます。

赤報隊事件(116号事件)

「赤報隊事件」とは、昭和62年(1987年)から平成2年(1990年)にかけて「赤報隊」を名乗る犯人が起こしたテロ事件です。

警察庁広域重要指定番号から「広域重要指定116号事件」とも呼ばれています。

この事件で、朝日新聞の記者が死傷し、2人の元首相が脅迫されるなど、日本における言論弾圧のテロ事件としては最大の事件とされています。

事件は、昭和62年(1987年)1月に、「朝日新聞東京本社銃撃事件」が発生し、そこから、平成2年(1990年)5月、愛知韓国人会館放火事件までの7つの事件をまとめて呼んでいます。

<赤報隊事件一覧>

◆昭和62年(1987年)

  • 1月24日:朝日新聞東京本社銃撃事件
  • 5月3日:朝日新聞阪神支局襲撃事件
  • 9月24日:朝日新聞名古屋本社社員寮襲撃事件

◆昭和63年(1988年)

  • 3月11日:朝日新聞静岡支局爆破未遂事件
  • 3月11日(消印):中曽根康弘・竹下登両元首相脅迫事件
  • 8月10日: 江副浩正リクルート会長宅銃撃事件

◆平成2年(1990年)

  • 5月17日:愛知韓国人会館放火事件

この7つの事件が起きた直後に、犯人は時事通信社と共同通信社の両社に「赤報隊一同」の名で犯行声明をその都度郵送で送っています。
この7つの事件は、犯行声明のワープロ文字や用紙が同一であるため、同一人物(グループ)の犯行と見られています。

これらの事件の中で最も重大な事件は、「朝日新聞阪神支局襲撃事件」と言えるでしょう。

「朝日新聞阪神支局襲撃事件」は、昭和62年5月3日の午後8時15分頃に起きました。

連休初日で、阪神支局には事件発生時、3人の記者がいました。

記者3人が食事をしていたところ、突然、黒っぽい目出し帽をかぶった、全身黒づくめの男が散弾銃を持って3人の記者がいた編集室に現れました。

そして、ソファーに座って雑談していた犬飼記者(当時42歳)の左胸を狙っていきなり発砲しました。

そしてその男は、次に小尻記者の後ろへ回り、驚いた小尻記者(当時29歳)が振り向いた瞬間に、無言で至近距離から2発撃ってきたそうです。

その様子を呆然として見ていた高山記者(当時25歳)は、犯人と目が合い、「撃たれる」と思ったところ、犯人は無言で立ち去ったということです。

散弾銃で撃たれた犬飼記者は、左胸のポケットに鰻皮製の札入れとボールペンを入れていたため、心臓まであと2ミリというところで鉛玉が止まり、奇跡的に命を取りとめましたが、右手の小指と薬指を失うなど、重傷を負います。

一方、小尻記者は腹部で400個の鉛粒が破裂し、銃撃を受けた5時間後に失血死されました。

5月の連休中皆がお休みで、のんびりムードだったところに、こんな恐ろしい事件が起きて、しかも犯人は逃走中ということで、日本中の人を震撼させたのを覚えています。
その後、犯人の行方は全く掴めないままでした。

そして5月6日、時事通信社と共同通信社に「赤報隊一同」の名で犯行声明が届きます。
犯行声明の中で犯人らは、「われわれは本気である。すべての朝日社員に死刑を言いわたす」、「われわれは最後の一人が死ぬまで処刑活動を続ける」などと、殺意に満ちた恐ろしい意志を述べています。

警察庁は、朝日新聞やリクルート会長宅への散弾銃による襲撃事件4件と、時限爆弾による未遂事件1件の計5件を広域重要指定116号事件に指定して、全国的な捜査を行いました。
しかし、2002年に朝日新聞阪神支局襲撃事件、2003年には静岡支局爆破未遂事件が公訴時効が成立し、赤報隊事件の全ての事件が未解決事件となってしまいました。

この事件は、多くのテレビ番組や雑誌に取り上げられ、書籍にもなりました。
今年に入り、「文藝春秋」2023年6月号では、「朝日襲撃 『赤報隊』の正体」と題した特集記事が掲載されており、マスコミが今も真相を追い続けています。

そして、この事件の真相は謎のままですが、いくつかの説があります。

一つは、新右翼の中心人物だったN氏に関わりのある人物が実行犯ではないかという説です。

N氏は以前から、大物政治家の家を焼き討ちにするなど、テロ活動を行なっていました。
事件当時は、朝日新聞を強く批判し、テロの標的にしているかのようだったと言われています。

N氏に資金援助をしていたM氏は、阪神支局襲撃事件の直後、狼狽した様子のN氏から3000万円を用意するように言われて、N氏の事務所に現金を持って行きました。
すると、N氏は中肉中背で30~40歳位の短髪の男に、現金を渡していたといいます。
後にM氏はこの男が犯人で、赤報隊のメンバーではないかと語ったそうです。

他には、当時朝日新聞と敵対関係にあった、ある宗教団体が関係しているという説や、右翼思想を持つ元自衛隊員が犯人という説などがあります。

いずれにしても、真相は解明されず、犯人は野放しのままになっています。

名古屋妊婦切り裂き殺人事件

名古屋妊婦切り裂き殺人事件」は、昭和63年(1988年)3月18日の午後、愛知県名古屋市中川区のアパートで発生した殺人事件で、被害者は、アパートの2階に住む、主婦で臨月の妊婦、Mさん(当時27歳)でした。

被害者Mさんが発見された時、Mさんは後ろ手に縛られ、お腹を切り裂かれ、中から胎児を取り出した上、首を電気コタツのコードで絞められ、切り裂かれた腹の中には電話の受話器・ミッキー マウスのキーホルダーが詰め込まれ、血まみれの状態でした。

その猟奇的犯行は、機動捜査隊の警察官が、「あんな現場は今までに見たことがない」というほど、残虐の極みとも言える陰惨な状態で、昭和の未解決事件の中でも突出して猟奇的な事件だといえます。

被害者のお腹から取り出された赤ちゃんは、お腹が切り裂かれた時に、膝・臀部を刺され、下腹部を切り付けられた状態で、殺害現場の血の海の中で弱々しく産声を上げていたそうです。

被害者の死因は絞殺によるものとされており、絞殺後にお腹を引き裂かれたと見られています。

殺害現場を発見したMさんの夫が、すぐに救急車を呼び、Mさんは亡くなっていましたが、赤ちゃんは必死の救急処置と手術により、奇跡的に助かりました。

この事件が起こった、昭和63年3月18日、被害者Mさんに一体何があったのでしょうか。

第1発見者だった夫は、臨月で出産予定日が過ぎている妻を気遣いながら、この日の朝、会社に仕事へ出掛けています。

妻の体調が気になり、仕事の合間に家へ電話をかけていた夫は、この日も12時過ぎに、会社から家に電話をしましたが、その時は特に異常はありませんでした。

退社する直前の18時50分ごろ、再び電話をかけた際は、誰も電話に出なかったといいます。
夫はこの時、特に異常だとは感じずに、出掛けたならそのうち帰るはず、などと考え、会社から帰宅し、19時40分ごろに自宅に到着したところ、普段は施錠してある玄関ドアが施錠されておらず、部屋の灯りもついていない状態でした。

夫はおかしい、と思いながらも、寝室で着替えると、赤ちゃんの鳴き声がするので、奥の6畳間に行くと、血まみれのMさんと瀕死の赤ちゃんを発見したそうです。

また、この日、Mさんの元気な最後の姿を見たであろう人物がいます。友人の30代の女性です。

この女性は、当時3歳だった娘さんと一緒にMさん宅に遊びに来ており、13:50〜15時ごろまで滞在していました。

Mさんはこの女性が帰る時、駐車場まで送っていったのですが、その際、わずかな時間ですが、部屋に鍵をかけていなかったそうです。

そして、Mさんの夫が家に帰って、発見されるまでの間に悲劇が起こったと思われます。

この事件は、「史上稀に見る猟奇的な凶悪事件」と言われて、愛知県警が4万人の捜査員が動員して、必死の捜査を展開しました。

しかし、死因は絞殺と判りましたが、首に巻かれたコタツの電気コードは、犯行に使われたものではなく、お腹を切り裂いた刃物も見つかっておらず、凶器が見つからない上に、指紋も拭き取られ、遺留品も見つからないという状況から、犯人の手がかりが得られず、捜査は行き詰まり、事件は謎のまま、2003年3月18日に公訴時効が成立しています。

現時点でも犯人はわかっていませんが、有力な説として、「外部から侵入したプロの猟奇殺人鬼」説があります。

捜査の初期段階では、被害者が抵抗した後がない、玄関の鍵が壊れていないなどのことから、親しい人間の怨恨による犯行と見られ、第1発見者の夫が疑われました。

しかし、司法解剖や捜査の結果、Mさんの死亡推定時刻が事件当日の15時から16時までの間と推測されたため、その時間帯、会社で働いていた夫はアリバイがあるため、容疑者から外されました。

その後、事件当日の新たな証言が出てきました。

同じアパートに住む1階の住人のところに、15時ごろ、年齢は30歳代、身長約165センチで中肉中背、サラリーマン風の不審な男が1人で訪れ、「ナカムラさんのところを知りませんか?」と尋ねてきたことがわかりました。
このアパートには「ナカムラ」という人物は住んでおらず、その訪ねてきた男は様子がおかしかったといいます。

この証言から、犯人は、同様の口実でMさん宅を訪問し、隙をついて家の中に侵入した、または、Mさんが15時ごろ、帰る友人を駐車場まで送って行く間に、鍵のかかっていないMさん宅に侵入し、部屋に戻ったMさんを襲ったという説が出ています。

犯行のあった頃に、近所の小学生が不審な男を目撃していたり、14時半ごろ、アパートの駐車場にエンジンをかけたままの車が停めてあったなどの証言があります。

また、被害者の腹部が縦に38cmほど、カッターナイフのような刃物で、下から上へと、手際よく切り裂かれていた事と、素人では容易に切断できない臍帯も切断されていた事で、「妊婦に異常な関心があり、医学的知識を持った成人男性」という犯人像が浮上しました。

しかし、医学的知識を持った者ならば、帝王切開の場合、お腹は横に切るのが通常であり、縦に切る場合も徐々に10 〜15センチ切開してから子宮を切開する、上から下に切開するなど、矛盾点が多く、「医学的知識を持った成人男性」という説は否定されています。

この事件も、犯人は現在も野放しのままになっている未解決事件ですが、あの時の赤ちゃん(男の子)は無事に成長し、小学校6年生の時に、父親とアメリカ(ハワイ)に移住したとのことで、男の子が元気に成長したことが、せめてもの救いと感じました。

犯人がわかっている未解決事件

ここでは、犯人がわかっているのに、はっきりとした証拠がなく逮捕できなかった、逮捕したにもかかわらず、証拠不十分で無罪になった事件を取り上げます。

北関東連続幼女誘拐事件

「北関東連続幼女誘拐事件」は、昭和54年(1979年) 以降、4件の女児誘拐殺人事件と関連が疑われる1件の女児連れ去り事件(失踪事件)が栃木県と群馬県の県境、半径20km以内で発生しており、これら5事件をまとめて「北関東連続幼女誘拐殺人事件」とされています。

最初の事件は、栃木県足利市で5歳の女の子が行方不明となり、渡良瀬川付近で遺体が見つかりました。

第2の事件は、昭和59年、栃木県足利市の5歳の女の子がパチンコ店から行方不明となり、昭和61年、自宅から1.7km離れた場所で白骨死体として発見されました。

第3の事件は、昭和62年、群馬県新田郡尾島町の8歳の女の子が、自宅近くの公園へ遊びに出かけたまま行方不明になり、翌年に利根川河川敷で白骨死体の一部が発見されました。

この事件は、埼玉幼女連続誘拐殺人事件の犯人、宮崎勤の関与が疑われましたが、立件できず、犯人は不明のままです。

第4の事件は、平成2年、栃木県足利市で4歳女の子がパチンコ店から行方不明とな利、その翌日に渡良瀬川河川敷で遺体が発見されました。

この事件は「足利事件」といわれ、平成3年にDNA型鑑定の結果、犯人と同一として、市内に住む幼稚園バス運転手、菅家利和さんが逮捕されます。
菅谷さんは無罪を主張しましたが、無期懲役が確定しました。
その後、平成21年に、事件当時よりも鑑識技術が進歩した上で、DNA型鑑定を再度行ったところ、別人と判明し、再審を経て無罪となりました。

第5の事件は、平成8年、群馬県太田市の4歳女の子がパチンコ店から行方不明となる事件が発生しました。(横山ゆかりちゃん誘拐事件)
この事件の被害者の女の子は、行方が不明のため失踪事件として、これまでの4件と関連があるとみています。

この事件ではパチンコ店に防犯カメラが設置されており、防犯カメラに写っている男を重要参考人として警察は追っています。

これらの事件の共通点として、パチンコ店で誘拐し、その後遺体を河川敷に遺棄している点があります。

また、第4の「足利事件」の時に、被害者の女の子と連れ立って歩いている「ルパンに似た男」が目撃されています。

ジャーナリストの清水潔氏の調査によると、このルパン似の男は「パチプロの藤田(仮名)」と特定されており、第5の事件の防犯カメラの男とも似ているそうです。

清水氏は、犯人と特定された男の情報を警察には伝えていますが、いまだに犯人は逮捕されず、未解決事件のままとなっています。

札幌市男児失踪死亡事件(城丸君事件)

「札幌市男児失踪死亡事件」は、昭和59年(1984年)1月、札幌市豊平区で当時9歳の男の子、城丸(じょうまる)君が、「ワタナベさんという家に行ってくる」と言って、行方不明になりました。

城丸くんの家が資産家だったため、身代金目的の誘拐の可能性がありましたが、犯人からの身代金の要求がなかったため、公開捜査となりました。

その後、元ホステスのK子の住むアパートの階段を上る城丸君を目撃したという証言があり、警察は重要参考人として彼女に事情聴取を行いましたが、事情聴取のみで終わっていました。

事件はそのまま進展がないまま時が過ぎて、昭和61年(1986年)にK子の自宅が火事になり、K子の夫が死亡する事件が起きました。

その自宅の焼け跡から、焼けた人骨が見つかり、城丸君のものと思われましたが、当時のDNA鑑定では誰のものか特定できず、それ以上の追求ができませんでした。

平成10年(1998年)に、見つかった人骨を再度DNA鑑定したところ、城丸君のものと断定され、K子は殺人罪で起訴されました。(公訴時効成立1か月前)

しかし、この被告人は、犯行を否定し、黙秘を貫いたため、犯行動機も殺害方法もわからないままで、裁判では、被告が何らかの致死行為があったことを認定したものの、殺意があったかどうかは疑いが残るとして、被告の殺人罪に対しては、無罪判決が下りました。

この他に、傷害致死・死体遺棄・死体損壊の罪は、時効が成立していて罪に問うことができず、犯人であるとわかっているものの、無罪放免となりました。

この事件では、「黙秘権」を行使することで、真実がうやむやになり、犯人と見られる人物が無罪となったことで、批判の声が上がったそうです。

さらにこの被告は、刑事補償1160万円を請求した裁判を札幌地裁に起こして、なんと930万円が支払われています。

子どもを死なせたと見られる人物が、それを利用して大金を得たとして、大変闇の深い未解決事件といわれています。

解決した未解決事件

ここでは、犯人が名乗り出たり、ひょんな事から犯人がわかり、事件が解決したものの、すでに時効が成立していて、罪を問うことができない、犯人側の一方的な話だけしか情報がなく、本当の真相は謎のままという事件を取り上げます。

足立区女性教師殺人事件

「足立区女性教師殺人事件」は、昭和53年(1978年)、東京都足立区内の小学校に務める女性教師が失踪した事件です。
公訴時効成立後の平成16年(2004年)に、失踪当時、被害者の最後の目撃者で、小学校で警備主事をしていた男、Wが女性教師の殺害を自供し、殺人が発覚した事件です。

女性教師の遺体等も発見されないまま、失踪事件であったため、当時世間を騒がせていた北朝鮮による拉致事件の被害者に似ているとして、北朝鮮に拉致された可能性もあるという見方もありました。

遺体が見つからなかったのは何故か?また、何故今になって犯人は自首してきたのか疑問が出てきます。

それは、Wが被害者の遺体を自宅に隠していて、誰にも見つからなかったことと、区画整理で立ち退きを余儀なくされ、遺体が発見されることは避けられないという、身勝手な理由からの自首でした。

事件の詳細は、犯人Wの一方的な話ですが、女性教師とWが校内で肩がぶつかったことから口論となり、騒がれたので逆上して校内で殺害したとのことでした。

しかし、遺族の話では、被害者は穏やかな性格で、人と争うことなどなかったということで、この話の信憑性には疑問がもたれています。

この事件はすでに殺人罪の時効が成立しているので、罪には問えず、遺族はWに対して、約1億8千万円の損害賠償請求の裁判を起こします。

1審はWに330万円の賠償を命じましたが遺族は控訴し、2審はWに約4255万円の支払いを命じました。
これに対しWは上告しましたが、最高裁はWの上告を退けて、判決が確定しました。

犯人がわかっていながらも、時効成立後のため、刑事罰を受けさせることができなかったのは残念ですが、高額の損害賠償が認められたのがせめてもの救いと感じました。

伊勢湾沿岸バラバラ殺人事件

「伊勢湾沿岸バラバラ殺人事件」は、1970年に伊勢湾の2カ所で、女性の下半身が発見されました。

パンプスを履いていた事や、遺体の様子から、20代で立ち仕事をしている女性である事は判明したものの、当時、身元は不明のままで、解決には至らず、1985年に時効が成立し、未解決事件となりました。

しかし、21年後に事件は急展開で解決に向かいました。

1992年、名古屋市北区のマンションの住人から、「衣装ケースの中に遺体が入っている」と通報があり、ブリキの衣装ケースの中からミイラ化・一部白骨化した女性の上半身が発見されました。

通報したのはその家主の妻で、家主である男性に話を聞いたところ、21年前の今回の事件の犯行を自供したのです。

これによって、被害者の身元も分かり、迷宮入りしていた事件が解決しました。

事件当時、男性はバーテンダーの仕事をしており、ホステスだった被害者の女性と同棲をしていました。
ある日、男性は女性と口論になり女性を絞殺していまい、遺体をバラバラにして、下半身だけ伊勢湾に遺棄したそうです。
そして、上半身が保管されていた衣装ケースについて、発見者である妻に男性は、「この箱は刑務所にいる友人からの預かりものだから、絶対に開けてはいけない」と厳しく言っていたそうです。

この事件はすでに時効成立しているため、男性は罪には問われず、書類送検のみ行われました。

しかし、犯人がわかっているのに、罰することができないのは理不尽な事だと思います。

昭和の未解決冤罪事件

ここでは、裁判で死刑判決が出たものの、冤罪だった、あるいは冤罪の可能性が高く、結果的に真犯人がわからなかった事件を解説していきます。

帝銀事件

「帝銀事件」とは、昭和23年(1948年)1月26日、東京都豊島区長崎の帝国銀行椎名町支店に、東京都衛生課員を名乗る男が現れ、集団赤痢が発生したので、消毒の前の予防薬を飲んでほしいと行員らを騙して、毒を飲ませて12人を殺害し、現金と小切手を奪った銀行強盗殺人事件です。

昭和23年1948年(1948年)1月26日午後3時過ぎ、閉店直後の帝国銀行椎名町支店に東京都防疫班の白腕章を着用した、東京都衛生課員を名乗る中年男性が現れます。
その男は厚生省技官の名刺を差し出して、「この付近で集団赤痢が発生したので、行内を大消毒する前に予防薬を飲んでもらいたい」、「感染者の1人がこの銀行に来ている」と偽り、行員と用務員一家の合計16人(8歳から49歳)に、ビンに入った無色の水薬を差し出して飲ませました。

最初はこの男が皆の前で、水薬の飲み方を説明しながら飲んで見せており、そのためか行員らは怪しまずに、支店長代理の机に置かれた水薬を次々と服用しました。

そして、服用した直後に悪寒、吐き気を催し、瞬く間に意識不明となって事務室や洗面所で倒れてしまいます。
行員の1人が助けを求めて路上に出て、ようやく事件が発覚します。

その場で亡くなった人や収容先の病院で亡くなった人など、計12人が亡くなりました。
行員が飲んだ水薬の中には青酸化合物が入っていました。

現場に駆けつけた警察は、当初、集団中毒事件として捜査し始めましたが、事件の2日後に、現金約16万4410円と、1万7450円の小切手を盗まれたことがわかり、銀行強盗事件と判明しました。
この被害額は、現在の貨幣価値に換算すると約100倍になると言われており、1800万円以上の大金が盗まれたことになります。

こうして現場が混乱して初動捜査が遅れ、現場保存も出来なかったため、犯人を取り逃すことになってしまいました。
しかも、小切手は事件発生の翌日に現金化されており、犯人は金を手に入れて、とっくに消えてしまっていたのです。

警察は、犯人が青酸化合物の扱いに慣れていることから、陸軍中野学校や旧陸軍731部隊関係者を中心に捜査し、陸軍関係の特殊任務関与者に的を絞るまで漕ぎつけましたが、これら関係者は口を固く閉ざし、捜査は行き詰まりました。

そして元731部隊の軍医中佐が重要参考人として挙がりましたが、GHQから旧陸軍関係の捜査を中止するよう圧力がかけられたそうですが、真相は定かではないとされています。

捜査線上に浮かんだ容疑者は5800人以上となり、進まないかにみえた捜査は、昭和23年(1948年)8月21日、犯人の似顔絵に似ている、平沢貞通を逮捕したことで、一気に事件解決に向かったようでした。

逮捕された平沢貞通(当時56歳)は、二科展に3回、文展に16回、光風会には毎年入選するなど、画家として成功しており、名実ともに一流の画家として活躍していました。
戦後直後に、皇太子殿下(当時)への献上画「春遠からじ」を描いており、画家としての名声が伺えます。(事件発覚後、その絵は行方不明となる)

しかし、画家として活躍する一方で、大正14年(1925年)、狂犬病の予防注射が原因で、「コルサコフ症候群」という病気に罹ってしまいます。

「コルサコフ症候群」とは、主にアルコールの多飲によるビタミンB1欠乏によって生じるウェルニッケ脳症の後遺症として発症する認知症だそうです。

この病気のせいか、平沢はその後、嘘をついたり、おかしな行動をとるようになったそうです。

逮捕後、平沢は無実を主張するも、逮捕から1ヶ月後に、「自分がやった」と自供しています。

目撃者の面通しでは11人中、「犯人だと似ている」が5人、「犯人と違う」が6人と微妙でした。

しかし、平沢には、事件直後、偽名の口座に被害額と同じ金額の預金をしていたり(金の出所を言えなかった)、事件で使われた「青酸カリ」を持っていたり、盗まれた小切手を換金した人物に似ているという銀行員の証言など、状況的に犯人と結びつけるものが多く、平沢が銀座の日本堂時計店で、詐欺事件を起こしていたことがわかると、捜査陣も平沢が犯人であると確定していきました。

その後、裁判が始まると、平沢は無罪を訴えましたが、昭和25年(1950年)7月24日に1審判決で、「死刑」となります。
平沢は控訴、2審も死刑判決が出て、上告しますが、昭和30年(1955年)4月6日、最高裁大法廷(第3審)において、上告棄却がなされ、平沢の死刑が確定しました。

しかし、平沢の自白以外に決め手となる物証が乏しいことや、捜査が始まった当初は、旧陸軍関係者が犯人として捜査されていたこともあり、平沢が真犯人であることに疑問を持つ人が少なからずいて、「平沢貞通氏を救う会」が結成されたり、日本社会党の田英夫氏や自民党議員などの超党派の国会議員、作家の松本清張氏ら文化人や法曹界の関係者らが、死刑執行の停止や、恩赦、再審請求などを求めていました。

このような世論の動向や平沢が高齢であることからか、国も死刑執行を見送っており、昭和62年(1987年)5月10日、午前8時45分、平沢は肺炎のため、八王子医療刑務所で亡くなりました。(95歳没)。

平沢の死後は、養子となった平沢武彦氏により、再審請求が幾度もされましたが、認められることはありませんでした。

いまだに、この事件の真相は謎のままですが、平沢以外の人物が真犯人だという説は根強くあり、死刑執行もされなかったことから、「未解決の冤罪事件」と言われています。

平沢は事件直後に大金を手に入れましたが、そのお金の出所を明かさなかったのは、「春画」を描いて得たお金だったため、画家としてのメンツを守りたかったからとも言われています。

では、真犯人は誰だったのかという疑問が残りますが、作家の松本清張氏は著書「日本の黒い霧」(1961年)でこの事件を取り上げて、旧日本軍の細菌戦部隊関係者が犯人の可能性を指摘しています。
同じく松本清張氏の著書「小説帝銀事件」では、GHQの関与などを推理しています。

その他、当初、捜査線上に浮かんだ、元陸軍の関係者が犯人である説、都内の歯科医が犯人である説などがありましたが、真相は謎のままとなっています。


財田川事件

「財田川事件(さいたがわじけん)」とは、昭和25年(1950年)2月28日、香川県三豊郡財田村で闇米ブローカーの男性(当時62歳)が、就寝中に襲われ、全身30か所を刃物で刺されて殺害された上に、現金1万3000円を奪われた強盗殺人事件です。

同じ年の4月1日に、隣村の三豊郡神田(こうだ)村で、農協強盗事件が発生し、犯人は2人組であったことから、その事件の容疑者としてTさん(当時19歳)ともう1人が逮捕されました。

警察は強盗事件とともに、先の強盗殺人事件の容疑で取り調べました。

(もう1人はアリバイが成立して釈放されています。)

神田村での農協強盗事件に関しては、Tさんに有罪判決が下りました。

その後もTさんに対し警察は、何度も別件逮捕により、代用監獄を行い、身体拘束をしたり、暴行を加えたりなどして自白を強要し、同年7月26日にTさんは自白、8月23日に起訴されました。

裁判では自白を強要されたとして、Tさんは無罪を主張しましたが、昭和27年(1952年)2月、高松地裁丸亀支部は死刑判決を下します。

Tさんは控訴しますが、2審の高松高裁は、昭和31年(1956年)6月、控訴を棄却し、上告するも昭和32年(1957年)1月、最高裁が上告を棄却し、死刑判決が確定しました。

その後もTさんは冤罪を主張し、裁判所宛てに「事件時に着用したズボンに付着した血液の再鑑定をして欲しい」旨の手紙を出し、これをきっかけに、1969年4月に再審請求を開始し、1979年6月に再審開始が決定されました。

そして、再審が行われた結果、昭和59年(1984年)3月、高松地裁は「無罪」判決を言い渡し、確定しました。

ところで、この冤罪事件はなぜ起こったのでしょうか。いくつかの問題点を挙げていきます。

1つめは、警察が、地元の素行不良者として、Tさんを最初から犯人と決めつけて、拷問とも言える取り調べを行なって、自白を引き出していたことです。

2つめは、犯行時に着用していた国防色ズボンに微量の被害者と同じ血液型の血痕が付着しているという物的証拠があったのですが、当時の法医学の「権威」であった古畑種基東京大学教授による鑑定が、実際の検査は、古畑教授の門下生の大学院生が行っていたことが、後日判明しました。

これにより、再審では、血痕を再鑑定し、その血痕が事件後に付着した疑いがある等から、古畑教授の行なった鑑定は信用できないものとされました。

血痕に関しては、弁護側からは、警察によって、証拠品の押収時に捏造されたものという指摘もありましたが、すでに証拠品が廃棄されていたため真相はわかりません。

この事件は長期間に渡り裁判を行い、冤罪となり、再審で無罪となったのですが、結局、真犯人はわからないままで、未解決となっています。
裁判の長期化は、真犯人が逃走することに有利に働くとともに、真実を深く隠してしまいました。

この「財田川事件」は、四大死刑冤罪事件の一つ(「免田事件」、「財田川事件」、「松山事件」、「島田事件」)とされています。

袴田事件

「袴田事件」は、昭和41年(1966年)6月30日、午前2時ごろ、静岡県清水市にある、味噌製造会社専務宅が全焼するという火事が発生しました。
焼け跡からは、会社専務(当時41歳)とその妻(当時38歳)、次女(当時17歳)、長男(当時14歳)の4人が刃物でめった刺しにされた死体が発見されました。

前日に集金された現金のうち37万円が発見されなかったため、警察は、強盗殺人放火事件と断定して捜査を開始しました。

被害者の専務が、大柄で柔道の有段者であったことから、被害者と格闘可能な被害者の周辺にいる人物として、元プロボクサーで味噌会社の従業員だった、袴田巌さん(当時30歳)に目星をつけ、捜査が進んでいきました。

当時袴田さんは、犯行現場の裏側にある味噌工場二階の従業員寮に住み込みで仕事をしていました。

袴田さんにはアリバイがなく、事件直後に左手中指を怪我していたことや、寮から押収された袴田さんのパジャマから微量の血液とガソリンが検出されたことなどが証拠となって、袴田さんは8月18日に逮捕されました。

明確な決め手となるような証拠はなかったにもかかわらず、袴田さんが犯人という周囲の疑惑の目が向けられたのは、従業員が袴田さん以外は全員地元の出身だったため、袴田さんはよそ者扱いされていたからと言います。

また、元プロボクサーということで、暴力的なイメージを持たれるなど、周囲の人の偏見があったと言われています。

警察は、逮捕後袴田さんに、連日猛暑の中、平均12時間にも及ぶ取調べを行い、水も飲ませない、取調室に便器を持ち込んでトイレにも行かせない、棍棒で殴るなどして追い詰め、袴田氏を自白に追い込みました。

袴田さんは9月6日に自白し、9月9日に起訴されましたが、警察の取調べは起訴後にも続き、自白調書は45通にも及ぶという異常さでした。

袴田氏の自白の内容は、日替わりでコロコロ変わり、動機についても、当初は専務の奥さんとの不倫関係があったからとしていましたが、最終的には、金が目当ての強盗目的の犯行であるということになっていました。

そして、11月5日、静岡地裁で開かれて第1審の初公判で、袴田さんは無実を訴え、その後一貫して無実を訴えています。

公判の中では、当初から犯行着衣とされていたパジャマについて、静岡県警の行った鑑定があてにならず、実際には血痕が付着していたこと自体が疑わしいことが明らかになってきました。

そんな中、事件から1年2か月も経過した後に、新たな犯行着衣とされるものが5着、工場の味噌樽の中から発見され、検察が自白とは全く異なる犯行着衣に主張を変更してきました。

昭和43年(1968年)、第1審の静岡地裁は、自白調書のうち44通を無効としながら、1通の検察官調書のみを採用し、さらに、5点の衣類についても袴田さんと同じB型の血液が付着していたとして、袴田さんの物であると判断し、袴田さんに死刑判決を言い渡しました。

この判決は、昭和55年(1980年)11月、最高裁が上告を棄却し、袴田さんの死刑が確定しました。

これに対し、袴田さんは再審請求を行い、2008年4月に、2回目の再審請求をした後、2014年3月、静岡地裁は、袴田さんの2回目の再審請求事件について、再審を開始し、死刑及び拘置の執行を停止する旨決定をし、同日に袴田さんは釈放されました。
釈放後は、お姉さんと一緒に暮らしています。

現在は、2023年3月、東京高裁は、2014年の静岡地裁の再審開始決定を支持し、再審の開始が待たれています。

この事件は、冤罪の可能性が高いと言われています。

死刑判決の証拠となった、味噌樽から発見された5点の衣類は、ズボンには血痕の付着していない場所に、股引には不思議と付着していたり、股引には血痕がついていないのにブリーフには付着していたりなど、犯行時の着衣としては不自然な点が多数ありました。

また、1年2か月以上も2トンもの味噌につかっていたと考えるには、シャツは白すぎて、血液は鮮血色であり、明らかに不自然でした。

これについては、弁護団の実験で、1年2か月も味噌につけられていれば、衣類は焦げ茶色に変色し、血液は黒色に変色することが明らかにされています。
さらに、ズボンに関しては、着衣実験したところ、袴田さんには小さすぎて、腿の辺りまでしか履けなかったのです。

加えて、犯行時の着衣とされた5点の衣類に付着した血痕に関して、DNA鑑定をした結果、袴田さんのものでも被害者のものでもないことがわかりました。

昭和の死刑判決が出た冤罪事件は4件ありましたが、この「袴田事件」は、5件目の冤罪事件であり、現在進行形の事件として注目されています。

ちなみに、袴田さんは、一審判決の1968年9月11日から2010年1月1日までの42年間、「世界で最も長く収監されている死刑囚」として、75歳の誕生日である2011年3月10日付でギネス世界記録で認定されていましたが、現在は取り消されています。

まとめ:昭和の闇を描く未解決事件は未来へのメッセージ

これまで、19件の未解決事件を解説してきましたが、昭和時代の未解決事件は、社会に深い影響を与えて、その残虐性や謎めいた要素から、人々の関心を引きつけ、大きな衝撃を与えました。

また未解決事件の発生には、昭和時代独特の要因がありました。
事件の発生当時の社会は、戦後の混乱期にありました。
昭和時代は、戦争の傷跡がまだ癒えていない時代であり、社会的な不安定さが感じられました。
このような状況下での未解決事件は、人々の不安感を増幅させ、社会に対する不信感を広げる結果となりました。

さらに、未解決事件は、犯罪の抑止力の低下を招いています。
事件の犯人が逮捕されないことで、同様の犯罪を犯す者が増える可能性があります。
実際に「青酸コーラ無差別殺人事件」は、「パラコート連続毒殺事件」や「グリコ・森永事件」といった模倣犯による事件発生のきっかけとなっていると言われています。

また、事件の解決が進まないことで、被害者やその家族の心の傷は癒えず、社会全体の安全に対する不安感も広がりました。

さらに、未解決事件は、警察や司法制度に対する批判を引き起こしました。
事件の解決が進まないことに対して、人々は警察や捜査機関の能力や信頼性に疑問を抱きました。

また、事件の捜査過程での不手際や証拠の紛失・捏造なども指摘され、司法制度への不信感も高まりました。
これに対し、法律や制度も事件を教訓として改善され、捜査手法や警察の組織などが見直されました。

昭和の未解決事件から得た多くの教訓を、未来へのメッセージとして、未解決事件の解決に向けた取り組みを継続し、事件の解決や犯罪の抑止に向けた努力を怠らずに、社会の安全と正義を守っていくことが求められます。