アフィリエイト広告を利用しています

塩沢ときの死因は?派手なメガネと髪型でブレイク、若い頃、子供、家族を解説

昭和の名脇役として知られる塩沢ときさんはどんな女優さんだったのでしょうか。
若い頃の活躍や、代表作、死因と、子供・家族などのプライベートにも迫って解説していきます。

塩沢ときとは?その生涯を振り返る

塩沢ときさんとはどんな女優さんだったのでしょうか。その経歴や若い頃、女優としての生涯を解説していきます。

塩沢ときの若い頃の活躍

塩沢ときさん(本名・旧芸名:塩沢登代路(とよじ))は、1928年4月1日、現在の東京都新宿区に生まれました。

実践高等女学校卒業後、1947年、「東宝ニューフェイス」第2期オーディションに合格します。同期には、児玉清さんや杉葉子さんらがいました。

その3年後に「女三四郎」(1950年、渡辺邦男監督)で映画デビューを果たします。

映画「うれし恥かし看板娘」(1954年、青柳信雄監督)では、主役のお澄役を演じましたが、その後は映画に出演するもパッとしない状態が続きました。

女優としての活躍と転機

塩沢ときさんは、当初は清楚なイメージで売り出されましたが、自身の演技に物足りなさを感じていたようです。

そんな時、転機となったのは1961年公開の映画「アワモリ君売出す」(古澤憲吾監督)でのコミカルな講師(立花チャームスクールの講師)役でした。

「人のまねをせず、自分だけのものを、自分でつくりましょう!」という台詞同様に、塩沢さんの新しいイメージである、明るく健康的なイメージを確立し、新たな道が開かれていきました。

その後、1970年代に放送された「ケンちゃんシリーズ」(TBS系列)や「ウルトラマンA」(1972年、TBS系列)などで、園児の母親役や教育ママ役など、幅広い役柄をこなすようになります。

さらに、1972年からの特撮ドラマ「愛の戦士レインボーマン」では、主人公の命を狙う魔女・イグアナ役を演じ、怪優としての一面も見せました。

塩沢ときさんの演技の幅広さと変幻自在な表現力が、多くの視聴者を魅了したのです。

私は子供の時に「愛の戦士レインボーマン」を観ていました。
頭にターバンを巻いて、包帯のような白装束を纏った奇抜なヒーローでした。

この特撮ドラマの主題歌が、「インドの山奥で、修行して〜♪」という歌い出しで始まり、子供たちの間で流行っていて、私もよく歌っていました。(昭和時代に子供だった人は一度は聴いたことのある歌だと思います。)

そして、ヒーローの敵である、魔女イグアナは、悪人中の悪人という感じで、体から滲み出るようなキョーレツな独特なオーラを放っていて、とても印象が強かったです。

大人になってから、魔女イグアナ役を、塩沢ときさんが演じていたのを知って納得しました。

派手なメガネと髪型で「いただきます」バラエティ番組でブレイク

1984年、派手なドレスと奇抜な髪型で、お昼のバラエティ番組「ライオンのいただきます」(フジテレビ)に登場し、上品な口調で下ネタを連発。
この大胆な演技が大ブレイクのきっかけとなりました。

その後は、「俺たちひょうきん族」(1981〜1989年、フジテレビ)や、「ワールドクイズ ザ・びっくり地球人!」(1987年〜1988年、日本テレビ系列)、「クイズ!年の差なんて」(1988〜1993年)などのバラエティ番組に出演、濃いオバさんキャラクターを演じ、茶の間の人気を独占。その独特な喋り方や表情で、視聴者を魅了しました。

塩沢ときの死因と晩年、闘病生活

ここでは、塩沢ときさんの闘病生活、その晩年と死因について解説していきます。

「徹子の部屋」で舌がんを告白

塩沢ときさんは30歳の時に舌がんを患いました。

舌の裏側にチクっとした痛みを感じて、舌の裏側を見ると、ブツブツとできものが沢山できていそうです。

すぐに知人に紹介された病院へ行き、診察を受けたところ、舌がんと診断されましたが、最新のがん治療を行う病院で手術をして、放射線治療を受けた結果、舌を切らずに済んだそうです。

塩沢ときさんの闘病生活は、この30歳での舌がんから始まりました。
この経験が、彼女のがんと向き合う姿勢の原点となったのです。

そのとき塩沢さんは、舌がんを患い治療したことを、他人には知られまいと、ひた隠しにしていました。

しかし、1981年に「徹子の部屋」(テレビ朝日系列)に出演した際に、これはチャンスだ、と思って、ご自身のがん体験を初告白をしました。
それと同時に、過去の恋愛についても包み隠さず語りました。

このように、テレビ番組で、自らのがん闘病や過去の恋愛など、プライベートをオープンに語ったことで、塩沢さんは「憑き物が落ちた」とおっしゃっており、これが後の大ブレイクへと繋がっていきます。

右胸・左胸の乳がんの闘病

塩沢ときさんの闘病生活は、30代で舌がんを克服した後も、50代と70代で左右の乳がんを患い、晩年まで続きましたが、その都度乗り越えていきました。

特に56歳での右胸の乳がん摘出手術は、バラエティ番組でブレイクした時期と重なり、大きな試練となりました。

塩沢さんは、右胸の乳がんの手術をした直後、入院中のベッド上で、日本航空123便の墜落事故のニュースを観たそうです。

この時塩沢さんは、「がんを患った自分もいつまで生きられるかわからない。だったら自分の思い通りに生きよう」と決意されたそうです。

そこから塩沢ときさん独自のスタイルが確立され、派手な衣装と髪型、メガネで、視聴者を楽しませてくれる、底抜けに明るい塩沢ときさんが出来上がっていったのです。

がんの闘病をしながら、バラエティ番組では、闘病中であることを微塵も感じさせず、仕事を続けていったなんて、本当に強い方だったんですね。

そして、1999年には骨粗鬆症を発症し、杖をつきながら出演するほどの苦境に立たされましたが、2004年には完治します。

その後も、76歳の時に左胸の乳がんが発見され、手術をしました。

実に3回もがんを患いながら、その都度克服してきたことはすごいと思います。

長い間がんと闘いながら、「がんと共生する」というモットーを掲げ、多くの人々に勇気を与え続けました。

塩沢さんの著書、「がん人生」(1992年、データハウス)では、度重なるがんの闘病で、何度も死への不安に脅かされてきた中でも、「生きることはすばらしいことだ」というメッセージを伝えており、読者に感動を与えています。

塩沢ときさんの生き様は、病と向き合いながらも前を向いて生きる姿勢の大切さを教えてくれています。

塩沢ときの死因は「スキルス性胃がん」

塩沢ときさんの最期は、「スキルス性胃がん」との闘いでした。

2006年に発症し、約1年間の闘病生活を送りました。

スキルス性胃がんは、予後が非常に悪いことで知られる難治性のがんです。

芸能界では、フリーアナウンサーの逸見政孝さんが、この病気で、1993年に48歳の若さで亡くなっていることはよく知られています。

塩沢さんは、これまでに舌がんや左右の乳がんを克服してきた経験がありましたが、最後のがんには勝てませんでした。

2007年5月17日午前3時23分、「スキルス性胃がん」のため、亡くなりました。(享年79歳)

塩沢さんは最期まで闘病への強い意志を持ち続け、がんと共生する姿勢を貫きました。
その生き方は、多くのがん患者さんに勇気と希望を与え続けています。

塩沢さんは、生前、ご両親の故郷である、長野県飯田市内にご自身のお墓を建てていました。

現在はそのお墓に、静かに眠っていらっしゃいます。

墓石には、本名ではなく「女優 塩沢とき之墓」と刻まれており、女優業に一生を捧げた塩沢さんの思いが感じられます。

お墓のお隣りには、「とき観音」と土台に刻まれた観音様が建てられています。

その観音様は、まるで派手な髪型と衣装を身につけ、スラッとした上品な佇まいをしていた塩沢ときさんそのもののように見えます。

きっと今でも、観音様になって、私たちを明るく照らし続けてくれていることでしょう。

塩沢ときの主な出演作品

ここでは、塩沢ときさんの代表作など、主な出演作品を解説していきます。

映画・テレビドラマでの活躍

まず、映画ですが、1960年代は、森繁久弥が主演した「社長シリーズ」(松林宗恵監督)の芸者役や、「駅前桟橋」(1969年、杉江敏男監督)などの「駅前シリーズ」、
クレージーキャッツが主演した「クレージー映画」(杉江敏男監督ほか)など、東宝の喜劇映画に出演しています。

1970年代〜1980年代では、

  • 「どですかでん」(1970年、黒澤明監督)ウエイトレス役
  • 「駅 STATION」(1981年、降旗康男監督)での増毛ホテルの女中役
  • 「時代屋の女房2」(1985年、長尾啓司監督)ギンギンのマダム役
  • 「ドン松五郎の生活」(1986年、中田新一監督)岡崎 富子 役

など、その他数々の作品に出演しています。

テレビドラマでの塩沢ときさんの代表作といえば、1970年代に放送された「ケンちゃんシリーズ」が挙げられます。

教育ママを演じた塩沢さんの姿は、当時の社会現象を象徴するものとして強く印象に残りました。
また、塩沢さんの演技は、時に誇張されながらも、リアリティを失わない絶妙なバランスが評価されています。

その後、「パパと呼ばないで」(1972年、日本テレビ)や、「ウルトラマンA」(1972年、TBS系列)などの「ウルトラシリーズ」にも教育ママ役で出演し、「ママゴン」に代表される、キャラクターとしての認知度を高めていきました。

「愛の戦士レインボーマン」(1972~1973年、NET系)は、先ほど紹介したように、レインボーマンの命を狙う魔女イグアナを演じて、強烈な印象を残しました。

同じ特撮ドラマの「円盤戦争バンキッド(1976〜1977年、日本テレビ系列)では、バンキッドの生みの親、宇崎博士の娘で、バンキッドメンバーの母親、宇崎とき枝役を演じました。

柳生博さん演じる、夫宇崎博彦と、塩沢ときさん演じる、妻とき枝夫婦が、アンテナが回転して大騒ぎしたり、特殊装備をおもちゃだと思ったりして、トンチンカンな感じで面白かったのと、夫婦の掛け合いが絶妙で良かったですね。

また、「へんしん!ポンポコ玉」(1973年、TBS系)の鵜之目 タカ子(うのめ タカこ)役も印象に残っています。

私はこのドラマが好きで、毎週欠かさず観ていました。

このドラマは、主人公の中学生の百合と陽一が、宇宙人にもらったポンポコ玉によって、男女が入れ替わるという設定でした。

このことは、百合と陽一だけの秘密でしたが、塩沢さん演じる、近所のうるさいオバさんの鵜之目 タカ子が変身現場を目撃してしまい、その秘密を暴こうとします。

主人公たちの敵役といった役とも言えますが、塩沢ときさんの濃いキャラクターが、ドラマを盛り上げていたと思います。

鵜の目タカ子が、「見たわよ、見たわよ」と騒ぎ立てるところが面白かったです。

また、NHK大河ドラマにも出演しており、「山河燃ゆ」(1984年)では、畑中定代役、「春の波涛」(1985年)では、井上武子役を演じています。

晩年には「新・細うで繁盛記1」(2006年、フジテレビ)に、野口勝子 役で出演し、この2006年1月の放送回が遺作となりました。

塩沢ときさんの演技は、時代の空気を巧みに捉え、視聴者の共感を得る力強さがあり、単なる脇役を超えて、作品全体の印象を左右するほどの存在感がありました。

タモリと共演、バラエティ番組でのパフォーマンス

塩沢ときさんは、1980年代のバラエティ番組で独特のキャラクターを確立し、視聴者の心を掴みました。

塩沢さんのブレイクのきっかけは、人気トークバラエティ番組「ライオンのいただきます」(1984〜1990年、フジテレビ系列)でゲストとして出演したことです。

派手な髪型と衣装・メガネ、上品な口調で下ネタを披露する濃いオバさんキャラが受けて、塩沢さんはそれ以降大人気、バラエティ番組に引っ張りだこになります。

私も「ライオンのいただきます」を観ていましたが、司会は、まだ若かった小堺一機さんでした。

番組は生放送、ゲストは、塩沢ときさんをはじめ、小森のオバちゃまや浦辺粂子さんなど、みんなベテランのおばさまたちで、おばさまたちが自由におしゃべりするので、それに振り回され、右往左往する司会の小堺一機さんが面白かったです。

塩沢さんが下ネタを披露する時は、「そこまで言うか」というくらい、具体的な話をするので、聴いている方が恥ずかしくなるくらいでした。

塩沢さんの話し方が上品なので、話の内容とのギャップも面白かったです。

「オレたちひょうきん族」(フジテレビ系列)では、主に1985〜1986年の番組最盛期の時期に出演し、濃いオバさんキャラクターで茶の間の人気を集めました。

彼女の演技は、誇張された表情や大胆な身振り手振りで、コミカルな雰囲気を醸し出しました。

塩沢さんの魅力は、単なる面白さだけでなく、時代の空気を巧みに捉えた演技力にありました。

右胸の乳がん手術の後、1986年にはバラエティ番組(タモリの番組)「今夜は最高!」(1981〜1989年、日本テレビ)に出演します。

そこでのコントで、医者に扮したタモリを驚かせようと、患者役だった塩沢ときさんは、アドリブで、突然、左胸をポロリと出して見せたことがありました。
さすがのタモリさんもこれにはびっくりでしたね。

塩沢ときさんのパフォーマンスは、視聴者に笑いと共感を与え、バラエティ番組の黄金期を支えた重要な要素となりました。

また、コント番組では他の出演者とのアドリブ力も光り、即興的な掛け合いで場を盛り上げる才能も発揮しました。

塩沢ときの子供、家族、旦那は?

ここでは、塩沢ときさんの子供や夫、家族、私生活に関して解説していきます。

塩沢ときの子供は?

塩沢ときさんには子供さんはいませんでした。

塩沢ときさんは、20代の頃、偶然知り合った23歳年上の会社社長と約7年間お付き合いをしましたが、結婚はしませんでした。

その男性とお付き合いしていた約7年間に4回中絶しています。

もしもその妊娠された時、そのまま出産していたら、息子さんか娘さんがいらしたかも知れません。

塩沢ときの旦那や家族は?

塩沢ときさんは生涯独身を貫いたため、旦那さんはいません。

また、塩沢ときさんは1人っ子で、父親が先に亡くなったため、母親と2人暮らしでした。

長らく母娘の2人暮らしで、母親との生活を支えるために、女優業に打ち込んでいました。

また、世田谷にある家賃5万円の借家に亡くなるまで住み続け、家では雨戸を閉め切り、こもるようにひっそりと質素に生活をしていました。

プライベートは神経質な一面があり、寝る時は、アイマスクと耳栓が必需品だったそうです。

バラエティ番組で活躍していた時の、派手な出で立ちからは想像もつかないほど、私生活は質素でギャップがありました。

まとめ:塩沢ときの死因は「スキルス性胃がん」、がん闘病の中バラエティ番組でブレイクした名脇役だった

塩沢ときさんは、1928年に東京で生まれた個性派女優です。

東宝ニューフェイスに合格し、清楚なイメージで映画デビューしましたが、当初は女優として目立つ存在ではありませんでした。

30歳で舌がんを患うという試練を乗り越え、その後、教育ママの役や特撮ドラマの魔女役など、コミカルな役柄で注目を集めます。

特に1984年、バラエティ番組での奇抜な出で立ちと上品な口調での下ネタ発言が話題となり、一躍人気者となりました。

その後も乳がんや胃がんと闘いながら、独特の芸風で多くの人々を魅了し続けました。

私生活では結婚せず独身を貫き、「女性はスケベでなくちゃいけない」という大胆な発言でも知られています。

表では明るく開放的な一方で、プライベートでは神経質な一面もありました。

塩沢ときさんは、2007年5月17日、79歳の生涯を閉じます。死因は「スキルス性胃がん」でした。

生涯を通じて常に自分らしさを貫いた稀有な存在で、個性的な名脇役として人々の記憶に残っていくことでしょう。

塩沢ときさんが出演する、映画・ドラマを視聴したいのであれば、U-NEXTや、スカパー!を利用するのがおススメです。

特にU-NEXTは映画の作品数が多くて、スカパー!はドラマのラインアップが豊富になっています。

毎月定額で、映画やドラマなどが見放題のお得なサービスなので、ぜひチェックしてみてくださいね。

塩沢ときの映画観るなら<U-NEXT>

塩沢ときのドラマはスカパー!