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大滝秀治の若い頃の活躍とは?名言や家族、出演作品・CMを紹介!

独特の風貌と個性的な演技、「ひでじい」として親しまれ、名脇役として知られた「大滝秀治」さん。

おじいさんなどの老け役が多かった大滝秀治さんですが、若い頃はどんな人だったのでしょうか。

今回は大滝秀治さんの若い頃の活躍を中心に紹介していきます。

大滝秀治とは?(経歴、妻や娘などの家族)

大滝秀治の生まれ、経歴について 

大滝秀治さんは、1925年(大正14年)6月6日生まれ。

4人兄弟の末子として生まれました。(2012年10月2日没)

出生地は母親の実家がある新潟県ですが、生まれ・育ちは東京都文京区根津でした。

大滝秀治さんは、生まれた時から、髪や眉が白くなる体質でした。

大きくなっても薄いグレーになる程度で、そのため実年齢よりも老けて見えたそうです。

また、小学5年生の時に中耳炎にかかり、それが原因で右耳は完全に聴こえなくなったそうです。

1943年(昭和18年)に旧制私立駒込中学校(現駒込高等学校)を卒業後、港区三田にある電話局に勤務しました。

1945年(昭和20年)に兵隊に招集(通信兵)され、戦後は大手町の電話局(進駐軍担当)に勤務しました。

トルストイ作「復活」の舞台を観て感動し、帝国劇場でみた研究生募集のチラシをきっかけに、1948年(昭和23年)「東京民衆芸術劇場附属俳優養成所1期生」に合格して入所しました。

その後、「東京民衆芸術劇場」は、1950年4月に「劇団民藝」として、滝沢修氏、宇野重吉氏、清水将夫氏などを中心に旗揚げされ、大滝秀治さんも参加しました。

それ以降、終生「劇団民藝」に所属して、後に劇団民藝を代表する俳優となります。

舞台以外でも、映画「犬神家の一族」などの市川崑監督、「お葬式」などの伊丹十三監督、「男はつらいよ」などの山田洋次監督等の名匠の作品の常連となり、テレビドラマでも、「特捜最前線」や「北の国から」などでお茶の間の人気となりました。

大滝秀治の妻や娘、家族、ゆかりのある人について

大滝秀治さんの家族は、奥様と娘さんが2人います。

奥様は純子さんと言います。劇団民芸に所属していた方で、1955年に結婚し、世田谷区池尻にある都営アパートで結婚生活を始めました。

大滝秀治さんによれば、「よくできた女房で、下積み時代は彼女が働いてくれたおかげで演劇に打ち込めた」とのことでした。

娘さんは、長女の菜穂さんと二女の久美さんがいます。

長女の菜穂さんの夫は、舞台演出家の山下悟さんです。

二女の久美さんは「大滝久美」の名前で、1990年前後に女優として活躍していました。

1988年の小泉今日子さん主演のTBS系ドラマ「今日の日をこそ」や、同じく1988年、NHKドラマ「総務部総務課山口六平太」、1991年のNHKドラマ「オールド・フレンド」などにに出演しています。

※もう1人の家族、ペットのわんちゃんと一緒の写真

大滝秀治さんにゆかりのある人物として、「宇野重吉さん」、「奈良岡朋子さん」が挙げられます。

宇野重吉さん(1914年~1988年)は「劇団民藝」の創設者の一人で、大滝秀治さんの師匠に当たります。戦前から戦後にかけて、日本の演劇界を牽引してきた重鎮でした。(俳優 寺尾聰さんの実父)

大滝秀治さんに対し、「俳優には向いていない」など否定的な発言がありましたが、大滝さんのことを気にかけていたと言われています。

奈良岡朋子さん(1929年~2023年)は、「劇団民藝」の代表をされていました。

大滝さんとは、1948年に劇団民藝養成所の1期生として入団した同期生でした。

それ以降、ともに劇団民藝の代表を務めるなど、大滝秀治さんが亡くなるまで、生涯に渡り交流がありました。

大滝秀治若い頃の活躍、出演作品 

大滝秀治さんの若い頃の活躍や出演作品を紹介します。

宇野重吉に鍛えられた若い頃は売れない俳優だった

大滝秀治さんは、1949年(昭和24年)に「風の吹く一幕」で初めて舞台に出演しました。

しかし、宇野重吉氏から、「おまえの声は壊れたハーモニカのようだ、演劇には向いていない」と言われて、俳優から演出部へ移りました。

その後、「東京民衆芸術劇場」は、1950年4月に「劇団民藝」として、滝沢修氏、宇野重吉氏、清水将夫氏などを中心に旗揚げされ、大滝秀治さんも参加しました。

旗揚げ公演のチェーホフ作「かもめ」に出演し、1952年(昭和27年)にも「冒した者」に代役で出演、それ以降再び俳優の道を歩みます。

その後は舞台ではこれといった役にはつかず、映画では、悪役や端役など(ノンクレジット出演者)での出演が主で、若い頃はこれといった活躍のない、不遇の時代が続きました。

しかし、こんな不遇な時でさえも、師匠である宇野重吉氏や滝沢修氏に指導された事を胸に刻んで、台本はボロボロになるまで何回も読み込むなど、俳優として成長しようと日々鍛錬していきます。

そんな大滝秀治さんに転機が訪れたのは、東京裁判を描いた舞台劇「審判」で初めて主役に抜擢された時のことです。大滝秀治さん、45歳の時でした。

その時の演技が高く評価されて、この作品で紀伊國屋演劇賞個人賞を獲得しています。

それ以降、映画、ドラマに数多く出演し、注目されるような話題作にも度々出演するようになります。

1975年に、社会派監督として知られる、山本薩夫監督の映画「金環蝕」に出演。

実際に起きた汚職事件をもとに描かれた作品で、大滝さんは、法務大臣役を演じて、その圧倒的な存在感で高評価を得ます。

その他の山本薩夫監督の作品で、「華麗なる一族」、「不毛地帯」に出演しています。

1976年には、先述した映画「不毛地帯」、「あにいもうと」でブルーリボン賞助演男優賞を獲得し、同じ年の1976年に「犬神家の一族」、その後は「悪魔の手毬唄」、「獄門島」など、市川崑監督の映画「金田一耕助シリーズ」に全作品出演するなどの活躍をされています。

※映画「獄門島」に出演の大滝秀治さん

1980年、名匠黒澤明監督の映画「影武者」では、有名無名にかかわらず、出演者は全員オーディションによって決めましたが、黒澤明監督から直々に指名があったのは大滝秀治さんと勝新太郎さん(後に降板)の2人だけということからも、その俳優として、唯一無二の存在であったことがうかがえます。

大滝秀治さんを重用した映画監督は、もう一人、「伊丹十三監督」が挙げられます。

1984年上映の「お葬式」から始まり、「マルサの女」、「タンポポ」、「あげまん」など、一連の伊丹監督作品に出演し、脇役ながら強烈な印象の演技で観るものを楽しませてくれました。

ドラマ「北の国から」、「特捜最前線」でお茶の間に定着する

テレビドラマで大滝秀治さんの代表作といえば、「北の国から」、「特捜最前線」、「うちのホンカン」が挙げられます。

まず、「北の国から」ですが、1981年10月から1982年3月まで、フジテレビ系列で放送されました。

脚本は倉本聰氏で、北海道の雄大な自然の中で、田中邦衛さんが演じる主人公の黒板五郎と2人の子どもの成長を描いたドラマです。

大滝秀治さんは、主人公の五郎のいとこで、共同牧場を経営する、北村 清吉(岩城滉一演じる草太の父)を演じました。

このドラマで大滝さんは、極寒の北の大地で、自然相手に仕事をする農家の厳しさと、働けど働けど、貧しさからは逃れられない辛さを背負いながらも、懸命に仲間と支えながら生きる、北村清吉の姿を演じています。

このドラマでの大滝さんの演技は、観ている者の胸を打ち、大変印象に残りました。

※主人公、五郎の元妻のお葬式で、大滝さん演じる清吉がセリフを言うシーン

大滝秀治さんは、倉本聰氏の名作と言われる「前略おふくろ様」など、倉本聰氏の作品には、度々出演しています。

この「北の国から」は、大変人気のあるドラマで、連続ドラマの最終回の視聴率は20%以上でした。

その後、ドラマスペシャルとしてシリーズ化されて、8編のドラマが放映され、21年間をかけて一つの家族を描いた大作でした。スペシャルドラマは常時視聴率20%超えの大ヒットドラマでした。

「特捜最前線」ですが、このドラマは、二谷英明さん演じる神代警視正を中心とする警視庁特命捜査課の刑事たちの活躍を描くもので、1977年4月から1987年3月までの10年間に渡ってテレビ朝日系列で放映された人気のドラマです。

ドラマの内容は刑事の捜査活動や刑事同士の衝突など、シビアで重厚な人間模様が描かれています。

大滝秀治さんは、刑事生活40年、ベテラン警部補の船村一平を演じました。

特命課のメンバーから「おやじさん」と呼ばれて、慕われ、尊敬されている存在で、お茶の間での人気も高かったです。

「うちのホンカン」は、倉本聰氏脚本で、大滝秀治さんが珍しく主役を演じているドラマです。

内容は、北海道の田舎町の駐在所に勤務する警官の活躍をほのぼのと描いたドラマで、1975年から1981年に渡りTBS系テレビの「日曜劇場」枠で放映されたものです。

 大滝秀治さんは、「ホンカン」こと警官の河西公吉を演じました。

この役は、大滝さんのはまり役としてお茶の間で大人気となりました。

妻のさちを八千草薫さんが演じ、年頃の娘を仁科明子さん(当時)が演じています。

この作品は、第23回日本民間放送連盟賞最優秀賞を受賞しました。

若い頃の出演作品 (舞台、映画、ドラマ)

ここでは大滝秀治さんの若い頃(1949年〜1990年)の主な出演作品を表にしてみました。

年代

作品名

監督・脚本家名

備考

1949年
風の吹く一幕
 
初舞台
1952年
かもめ
岡倉士朗(演出)
舞台
1952年
原爆の子
新藤兼人
映画
1953年
夜明け前
吉村公三郎
映画
1959年
危険な女
若杉光夫
映画
1963年
青春を返せ
井田探
映画
1963年
天国と地獄
黒澤明
映画
1963年
日本列島
熊井啓
映画
1970年
審判
宇野重吉(演出)
舞台、初の主役
1974年
華麗なる一族
山本薩夫
映画
1975年
金環蝕
山本薩夫
映画
1975年
男はつらいよ・葛飾立志編
山田洋次
映画
1975年
前略おふくろ様
倉本聰
ドラマ(〜1976年)
1975年
うちのホンカン
倉本聰
ドラマ、主役(〜1981年)
1976年
不毛地帯
山本薩夫
映画
1976年
あにいもうと
今井正
映画
1976年
君よ憤怒の河を渡れ
佐藤純彌
映画
1976年
男はつらいよ・寅次郎夕焼け小焼け
山田洋次
映画
1976年
犬神家の一族
市川崑
映画
1977年
八甲田山
森谷司郎
映画
1977年
悪魔の手毬唄
市川崑
映画
1977年
獄門島
市川崑
映画
1977年
特捜最前線
長坂秀佳 他
ドラマ(〜1987年)
1977年
鬼畜
野村芳太郎
映画
1978年
女王蜂
市川崑
映画
1979年
病院坂の首縊りの家
市川崑
映画
1980年
影武者
黒澤明
映画
1981年
北の国から
倉本聰
ドラマ(〜2002年)
1984年
お葬式
伊丹十三
映画
1984年
瀬戸内野球少年団
篠田正浩
映画
1985年
払えないの?払わないのよ!
渡辺浩子(演出)
舞台
1985年
タンポポ
伊丹十三
映画
1987年
マルサの女
伊丹十三
映画
1988年
第二次大戦のシュベイク
渡辺浩子(演出)
舞台、主役
1989年
黒い雨
今村昌平
映画
1990年
あげまん
伊丹十三
映画

関根勤のモノマネ、キンチョールCMで国民的俳優へ

平成に入り、大滝秀治さんはますます活躍していきます。

特に大滝秀治さんを国民的俳優に押し上げたのは、関根勤さんのモノマネとキンチョールのCMでした。

関根勤のモノマネで若い世代にも人気が定着

個性的な実力派の俳優で、老け役の多かった大滝秀治さんを、若者世代にまで知名度を広げ、幅広い層に親しまれるきっかけとなったのが、関根勤さんのモノマネです。

独特の風貌と話し方を真似た関根勤さんのモノマネは、特に若者にウケて大人気となりました。

このモノマネに対し、「大滝秀治さんに失礼」、という意見もありましたが、大滝さんご本人は「よくデフォルメされている」と公認しており、2人で旅番組で共演したりしていました。

関根さん云く、「2人で伊豆を旅する番組でご一緒させていただいた際には、仕事や人生に関するお話をたくさんしていただきました」

また、「本当の父親と時間を過ごしているようでした」と、大滝さんとの想い出を語っておられます。

岸辺一徳と共演のキンチョールCMが名作と話題に

そしてもう1つ、大滝秀治さんの人気を不動のものにしたのは、2002年から始まった、岸辺一徳さんと共演した「キンチョール」のCMです。

CMの中で大滝さんが言っているセリフ「お前の話はつまらん。」は、その年の流行語になりました。

大滝秀治さんは、この頑固ながらもユーモラスな親父さんを、その独特の演技で見事に表現して、このCMは大変話題となりました。

共演の岸辺一徳さん演じる息子との絡みも面白いですね。

このCMは、優れた広告製作者に贈られる賞、東京コピーライターズクラブ賞において、2004年にグランプリを受賞しています。

大滝秀治の名言について

大滝秀治さんは、俳優としてのあり方などについて、いくつかの名言を残しています。

そのいくつかをここで紹介して行きます。

「自信の上には奢りがあり、謙遜の下には卑屈がある。決して、自信に堕ちるな、謙遜に満ちるな。」

こちらは名言としてよく取り上げられている言葉です。

ご本人いわく、「自信の上に自惚れがある。謙虚の下に卑屈がある。自惚れは自信過剰、卑屈は謙虚の下。だけど、自信と謙虚のあいだでもって、一生懸命やっていればいいんじゃないかと思うんです。」とおっしゃっています。

両極端に陥らずに、バランスを取りつつ、努力を重ねていく、ということでしょうか。

「役者とは修練を重ねて青い光をつかむようなもの」

この言葉は、役者として、長年下積み生活を送り、熱い心で修練を重ね続けて、遂に役者の道を極めた大滝秀治さんならではの、重みのある言葉ですね。

「仕事は「点」じゃいけない。次もそれに勝る仕事をすると、点が線になり線が面になり面が立体になる。今どれだけのことが出来るかだと思っています。」

この言葉は、私たちが仕事に取り組む上でも、大事なことではないでしょうか。

私たちはつい、その場しのぎの仕事をやってしまいがちです。
怠け者の私は、仕事は上司に注意されない程度に、適当にやっておけば良いと思ってしまいます。

しかし、後々のことを考えて、今やっている仕事も、立体になるための大事なステップなのだということを忘れないで、取り組んでいけたらと思いました。

どの言葉も、大滝さんが長年俳優として実践し、検証してきた上で生まれた言葉です。

その経験をもとに語られた数々の名言には、説得力があり、大いに学びがありますね。

まとめ:大滝秀治、若い頃は売れない俳優から、高倉健が尊敬する名優へ、死因は肺がん?娘も芸能界に

これまで大滝秀治さんの若い頃の活躍を中心に紹介してきました。

若い頃は、端役や悪役ばかりでしたが、45歳の時、舞台「審判」で主役を演じて、紀伊國屋演劇賞個人賞を獲得し、演技力を高く評価されます。

それ以降は映画に、テレビドラマにと、引っ張りだこの人気俳優となります。

その後、関根勤さんのモノマネで全国的に有名になり、キンチョールのCMで日本中に親しまれる俳優となります。

「80過ぎても未(いま)だ山麓…」と言っていたくらい、エネルギッシュで、芝居に打ち込む姿は、人を圧倒するような威厳があったと言われる大滝秀治さん。

俳優になるために生まれてきたような人ですね。

芸能界で活躍する家族は、娘さんで女優の大滝久美さん(二女)、娘婿(長女の夫)で舞台演出家の山下悟さんがいます。

そして、2012年2月に肺がんが見つかりましたが、舞台に立てなくなる可能性のある手術や放射線治療を拒否し、抗がん剤治療に専念します。

同年6月に予定していた主演の舞台は降板したため、2012年8月に公開された、映画「あなたへ」(降旗康男監督)が最後の出演作品となりました。

この映画に主演した高倉健さんは、大滝さんと共演した長崎県平戸市で撮ったシーンについて「あの芝居を間近で見て、あの芝居の相手でいられただけで、この映画に出て良かったと思ったくらい、僕はドキッとしたよ。」と語り、感動して涙が出たとのことです。(映画「あなたへ」は高倉健さんの遺作にもなりました。)

若い頃は、師匠に俳優には向いていないと否定され、売れない時代が長かった俳優は、後に文化功労者に選ばれ(2011年)、日本の映画界のトップに立つ高倉健に賞賛され、尊敬される俳優にまで登り詰めたのです。

病床にはかつて演じた舞台の台本をそばに置いて、色紙に「舞台にもう1度立ちたい」と書くほど、亡くなる直前まで舞台に立つことを諦めずにいた大滝秀治さんですが、2012年10月2日にご自宅で、ご家族に看取られながら亡くなりました。

死因は、「肺扁平上皮(はいへんぺいじょうひ)がん」でした。

大滝秀治さんは、映画「あなたへ」で、第36回日本アカデミー賞の最優秀助演男優賞を受賞されています。

昭和・平成と活躍した名優、大滝秀治さんの存在は、ずっと私たちの記憶に残り続けることでしょう。