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小倉一郎が若い頃の代表作や家族は?結婚歴や現在を紹介

70歳を超えた現在も名脇役として活躍している小倉一郎さん。

昭和時代の若い頃の活躍も、目覚ましかったといいます。

ではどんな活躍をされていたのか、仕事とプライベートの両方を紹介していきます。

小倉一郎の生い立ちと天才子役誕生秘話

家族を次々と亡くし小学1年で上京する

小倉一郎さんは、1951年10月29日 生まれで、現在 71歳です。

東京都新宿区で生まれ、生まれてすぐに両親の故郷の鹿児島県に移住します。

小倉さんは、姉1人、兄2人の4人兄弟の末っ子でした。

母親は小倉さんが生後1週間の時に他界し、双子の兄がいましたが、水の事故で、小倉さんが生まれる前に亡くなります。

16歳の時には、姉を脳腫瘍で亡くしています。

父親は結核を患っており、病弱で入退院を繰り返していたため、小倉さんを育てることができず、小倉さんは伯母に預けられます。

東京の大学に行っていた従姉妹(伯母の娘さん)が結婚することになり、それがきっかけで、小学1年生の時に、鹿児島からたった1人で上京、それからは東京で子供時代を過ごします。

梅宮辰夫の勧めで児童劇団へ

小倉一郎さんは、9歳から子役のエキストラで活動しています。

東映大泉撮影所で、通行人など、日当300円で出演していたといいます。

そんな時に、俳優の梅宮辰夫さんが、「基礎から演技を勉強して、いい俳優になりなさい」と声をかけてくださり、「東映児童演劇研修所」へ推薦してくれて、入所することになります。

その「東映児童演劇研修所」には、松岡きっこさんや風間杜夫さんなどが在籍しており、児島美ゆきさんと同期生だったそうです。

石原裕次郎と共演で本格デビュー

小倉一郎さんは、「東映児童演劇研修所」に入所中に、石原裕次郎さんの主演映画の子役のオーディションを受けて合格します。

その映画が、1964年日活の映画「敗れざるもの」(松尾昭典監督)です。

この映画によって、小倉一郎さんは本格的にデビューします。

この作品で、脳腫瘍に冒されながらも、病気と戦う健気な中学生を演じて、天才子役と言われます。

ウルトラマンシリーズに出演

ウルトラマンシリーズには、子役で1回、そして大人になってからはテレビと映画にそれぞれ出演しています。

最初は、1967年、TBS系放送「キャプテンウルトラ 」第14話「金属人間メタリノームあらわる!!」のススム役でした。

次は、1996年9月〜1997年8月にTBS系列で放送された、「ウルトラマンティガ」のヤオ・ナバン博士役でした。

そしてその「ウルトラマンティガ」が映画化、「ウルトラマンティガ」シリーズの完結編として、「ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY」(監督:村石宏實)が2000年に公開されます。

小倉さんは、前回同様、ヤオ・ナバン博士役で出演しました。

 

小倉一郎、若い頃の代表作、主な出演作品、結婚歴

小倉一郎さんの若い頃は、売れっ子俳優で、かなりのご活躍をされていました。

私は子供の頃、リアルタイムでその活躍を見てきました。

では、どんな活躍だったかを見ていきましょう。

最初の妻と共演「それぞれの秋」

小倉一郎さんが出演したドラマで、代表作の1つが、1973年、山田太一脚本、TBS系ドラマ「それぞれの秋」です。

木下惠介企画の「人間の歌シリーズ」第12作となるこの作品は、平凡なサラリーマン家庭を舞台に、小倉一郎さん演じる「次男 稔」の目を通して問いかける形で展開していきます。

家族愛、思いやりとともに、家族が抱える秘密や老いる悲しみなど、今までのホームドラマにはなかったシリアスな一面を描いており、ドラマは人気を博しました。

このドラマは、第6回テレビ大賞本賞受賞およびテレビ大賞優秀個人賞受賞(小林桂樹)、新人賞受賞(火野正平)、第11回ギャラクシー賞を受賞など多くの賞を受賞しています。

キャストは、主人公の次男・稔に小倉一郎さんの他、その父 清一に小林桂樹さん、母 麗子に久我美子さん、兄に林隆三さん、妹に高沢順子さん、その他火野正平さん、桃井かおりさんなど豪華俳優陣が揃いました。

実は、小倉一郎さんは、このドラマの中で、小倉さんの恋人役を演じた「海野まさみ」さんという女優さんと、1973年に最初の結婚をしています。
小倉一郎さん、22歳、海野まさみさん、18歳位という、若いカップルでした。

しかし、この結婚は2か月半という芸能界史上最短記録でスピード離婚しました。

萩原健一と共演「股旅」

1974年、市川崑監督の映画「股旅」に主役級の源太役で出演します。

この映画は時代劇ですが、時代劇では定番の、勧善懲悪のストーリーではなく、「股旅青春映画」と銘打っています。

社会から落ちこぼれた若者が、渡世の世界で苦しみもがく姿を描く、青春群像劇となっており、現代の若者の姿にも通じるものがあるとして、注目されました。

この映画で共演したのは、当時、人気俳優だったショーケンこと、「萩原健一」さんでした。

萩原健一さんは、ドラマ「前略おふくろ様」、「傷だらけの天使」、「太陽にほえろ」などに出演しています。

この映画は、小倉一郎さんと先述の萩原健一さん、そして尾藤イサオさんの演じる、3人の若者を中心にストーリーが展開していきます。

映画の撮影は、長野県伊那谷の山間の民宿に、冬の間、籠りきりで行われたそうです。

継ぎはぎだらけの古びた道中合羽と、穴の開いた三度笠をかぶったいわゆる股旅姿に、裸足でわらじを履いて、吹雪の山の中を1日中歩き回るシーンを撮った時は、「凍傷になるかと思うくらい寒くてどうにかなりそうだったが、何とか耐えて撮影をした」と小倉一郎さんは語っています。

苦労の多い映画撮影だったそうですが、ATG(非商業主義的な芸術作品を製作・配給した映画会社)の作品で、映画制作費の予算が当初1000万円程度という低予算だったため、ギャラは1人10万円と多くはなかったそうですが、俳優以外のスタッフはボランティアだったそうですから、それだけ映画作りに対するみなさんの熱意が凄かったのでしよう。

この映画は、以下の各賞を受賞しています。

  • 1973年度 第47回キネマ旬報 日本映画ベスト・テン4位
  • 第1回カンヌ国際映画祭ポスター・コンクール・グランプリ
  • ロンドン映画祭出品
  • 文化庁優秀映画選出

この「股旅」のロケ中に、小倉一郎さんと萩原健一さんが大喧嘩したというエピソードがあります。

主役3人の役者さん(小倉さん、萩原さん、尾藤さん)は、1つの部屋で寝泊まりしていたそうです。

そして、ある日の夜中に、萩原さんが寝ている小倉さんに、いきなり殴りかかってきました。

小倉さんが止めてくれと頼んでも、萩原さんがすごい勢いで殴りかかってくるので、撮影期間中に、顔に怪我をしてはいけないと思った小倉さんは、何とか応戦しましたが、なかなか止めてくれない、
そんな時、部屋から出かけていた尾藤イサオさんが戻ってきて、仲裁をして、何とか収まったそうです。

喧嘩の理由は、小倉さんが先輩の萩原さんを立てないことに(萩原さんが)怒ったからだそうです。

そこで小倉さんは、「先輩後輩で言えば、萩原さんは、先輩の尾藤さんを立てていたのか」と反論し、結局、萩原さんは小倉さんに謝ったそうです。

しかし、もやもやが残っていたのか、その喧嘩の翌日は、小倉さん演じる源太と、萩原さん演じる黙太郞が刀で斬り合うシーンがあり、そこでは、萩原さんが小倉さんに本気で切り掛かってきて、冷や汗ものだったそうですが、結果的にいい演技ができたそうです。

萩原健一さんとは、その後、「魔性の夏 四谷怪談より」(1981年、蜷川幸雄監督)、「誘拐報道」(1982年、伊藤俊也監督)などで、何度か共演しています。

最弱キャラ?「仁義なき戦い 頂上作戦」

小倉一郎さんの出演した作品の中で、最も意外性のある作品といえば、「仁義なき戦い 頂上作成」でしょう。

ひ弱で気が小さいキャラの役が定着していた小倉さんですが、まさか、ヤクザ映画に出演するとは、ご本人も出演オファーがあった時は、驚いたそうです。

映画「仁義なき戦い」は、シリーズ全五作あり、「仁義なき戦い」頂上作成は、1974年に公開されたシリーズの第四作目となります。(監督は全シリーズ、深作欣二監督が担っています。)

この映画は、昭和38年春から39年へかけて、敵対する二つの西日本広域暴力団の代理戦争とも言われた「広島抗争」を題材にして、リアリズムを重視して作られた作品です。

(映画に出てくる暴力団幹部は、ほとんどが実在する人物がモデルになっています。)

「仁義なき戦い」の映画を見たことがない方でも、このテーマ曲は一度は聴いたことがあることでしょう。

小倉一郎さんの役柄は、野崎弘という川田組のチンピラです。

ケンカをすれば、いつも殴られ蹴られと、やられっぱなしの弱いチンピラでした。

ある時、この野崎が男たちに殴られ、蹴られているところを、義西会の若衆頭、藤田正一(演者:松方弘樹)に助けてもらいます。

しかし、劇中のラスト近くで、小倉一郎さんが演じる野崎弘は、組長にけしかけられ、報酬に目が眩んで、藤田正一を射殺してしまい、恩を仇で返して、結局警察に捕まり、懲役20年の刑をくらうという顛末に終わります。

この野崎弘というキャラクターは、原爆スラムに住み、小さな弟や妹たちの面倒を見ながら、彼なりに必死に生きている若者で、その哀れさを感じさせる小倉一郎さんの演技は素晴らしかったと思います。

江ノ電を救った「俺たちの朝」

小倉一郎さんの代表作で、大ヒットした青春ドラマがあります。

それが、「俺たちの朝」です。

「俺たちの朝」は1976年10月〜1977年11月に渡り、日本テレビ系列で放送された青春ドラマで、「俺たちシリーズ」(他には「俺たちの旅」、「俺たちの勲章」、「俺たちの祭り」)の1つとして制作されました。

この「俺たちの朝」が制作されたきっかけは、日本テレビの岡田晋吉プロデューサーらが、俳優、勝野洋さんを主人公にした「俺たちシリーズ」のドラマを作りたい、という思いからでした。

勝野洋さんといえば、ドラマ「太陽にほえろ」のテキサス刑事で大人気だった俳優さんです。

ドラマ「太陽にほえろ」とは、日本テレビ系列で、1972年7月〜1986年11月に放送されました。

主演は石原裕次郎、警視庁七曲警察署捜査一係の刑事たちの活躍を描いた刑事ドラマです。

若手刑事役を演じた、萩原健一、松田優作、宮内淳、山下真司、渡辺徹などは、このドラマで一躍注目されて大人気となりました。

その中でも最も人気があったとされるのが、テキサス刑事こと、勝野洋さんでした。

1976年9月3日、テキサス刑事が殉職する放送回の視聴率は、42.5%で「太陽にほえろ」のなかで、最も高い視聴率となりました。

しかし、人気絶頂だった勝野洋さんは、「太陽にほえろ」で殉職して出番が無くなった後、主演する作品がなかったため、勝野洋さんをスターとして育てたかった岡田晋吉プロデューサーは、小倉一郎さんに、勝野洋さんを主人公にした「俺たちシリーズ」のドラマをつくりたいから、手伝って欲しいと言ったそうです。

勝野洋さんの共演者として、小倉一郎さんに白羽の矢が立ったのは、「太陽にほえろ」の第125話のタイトル「友人」という回の時に、高校時代の親友で、同居人という役で出演したことがきっかけでした。

このときの共演が、プロデューサーの岡田晋吉氏の目に留まり、勝野洋さんの相棒として、小倉一郎さんを選んだそうです。

年齢は当時20代と若かった小倉一郎さんですが、子役でデビューして、芸歴は長く、すでにバイプレーヤーとしての評価は高かったようです。

そのため、「俺たちの朝」での小倉一郎さんは、勝野洋さんの人気俳優としての地位を確実にするために、いい表現ではないですが、勝野洋さんの引き立て役としてドラマに参加する、という、後輩を育てるという立ち位置での出演だったようです。

ドラマの中では、勝野洋さんが長身であることを強調するため、小さい小倉一郎さんが、ジャンプして頭を叩くなど、勝野さんを引き立てる演技を工夫していたといいます。

ドラマ「俺たちの朝」は当初1クール(3か月)、全13回のドラマの予定でしたが、人気が出て、視聴率が思いのほか高かったため、3か月が半年、半年が1年、全48回と、放送期間が延び延びとなりました。

リアルでこのドラマが放送されていた当時、私は小学生でした。

幼かったせいか、20代の若者の悩みや気持ちなどはあまり理解できず、カッコいいお兄さんやお姉さんが出ている、くらいの感覚でドラマを観ていました。

しかし、大人になってから、再放送などで改めて観てみると、学生から社会に出たことでの若者の悩み、挫折を味わい傷つき、思うようにいかない苦悩を抱えながらも、みずみずしく生きる若者たちの姿、男女の友情、ヒーローがいない中での、現実に近い等身大の若者たちの心の有り様を描いた、名作ドラマだと思いました。

そして、この「俺たちの朝」が結果的に大きく貢献したのが、「江ノ電」(江ノ島電鉄)を廃止から救ったということです。

「俺たちの朝」の舞台は鎌倉地域、江ノ電沿線でした。

ドラマの舞台は当初、世田谷区の等々力渓谷周辺でしたが、駅構内の撮影許可が下りず、当時廃線が決まっていた江ノ電沿線は撮影可能なため、そこに決まったそうです。

「俺たちの朝」の放送が始まると、若者たちがロケ地を見ようと、江ノ電沿線に押し寄せるようになりました。

高度経済成長に伴い車が普及して、営業区間が10キロという、小さなローカル線だった「江ノ電」は、電車の利用者が減少して、廃線になる予定でしたが、この「俺たちの朝」が起こした「江ノ電ブーム」によって、過去最高の利益を得て、「廃線」は中止され、存続することになりました。

更に、江ノ島電鉄は、このドラマにちなんだ記念スタンプや記念切符も発行し、鉄道では初めて、テレビ番組にちなんだ記念切符を製作したため、記念切符は大変な人気で増刷となりました。

それによって、江ノ島電鉄は、開業以来、最高の利益を計上し、社長が当時の日本テレビ社長に感謝の意を伝えるために訪問したほどだったといいます。

主な出演作品

上記以外の、主な出演作品を挙げておきますので、参考にしてください。

<映画>

  • 「青春の海」(1967年、西村昭五郎監督) 江川タケシ役
  • 「性犯罪法入門」(1969年、帯盛迪彦監督) 鷹夫役
  • 「さえてるやつら」(1973年、吉松安弘監督) 源春彦
  • 「ときめき」(1973年、市村泰一監督)氏家浩司役
  • 「吾輩は猫である」(1975年、山本嘉次郎監督)吾輩(猫)の声役
  • 「トラック野郎・望郷一番星」(1976年、鈴木則文監督)浜村紅夫役
  • 「ヒポクラテスたち」(1980年、大森一樹監督)西村英二役
  • 「炎のごとく」(1981年、加藤泰監督) 松平容保役
  • 「魔性の夏 四谷怪談より」(1981年、蜷川幸雄監督)宅悦役
  • 「誘拐報道」(1982年、伊藤俊也監督)宇野記者役
  • 「大日本帝国」(1982年、舛田利雄監督)本堂一等兵役
  • 「天城越え」(1983年、三村晴彦監督)  建造の叔父役
  • 「メイン・テーマ」(1984年、森田芳光監督)鳥嶋役
  • 「餓鬼魂(がきだま)」(1985年、鋤田正義監督)北村源三役
  • 「化身」(1986年、東陽一監督)山口役
  • 「瀬戸内少年野球団・青春篇 最後の楽園」(1987年、三村晴彦監督)  一瀬役
  • 「われに撃つ用意あり」(1990年、若松孝二監督)三宅役
  • 「息子」(1991年、山田洋次監督)哲夫の隣人役
  • 「写楽」(1995年、篠田正浩監督)写楽絵の摺師役
  • 「バブルと寝た女たち」(1998年、新村良二監督)小野日出男役
  • 「生きない」(1998年、清水浩監督)神田役
  • 「ウルトラマンティガ THE FINAL ODYSSEY」(2000年、村石宏實監督) ヤオ・ナバン博士役
    「いつかA列車に乗って」(2003年、荒木とよひさ監督)小倉役
  • 「石井のおとうさんありがとう」(2004年、山田火砂子監督)林源十郎役
  • 「呪霊 劇場版 黒呪霊」(2004年、白石晃士監督)前田一繁役
  • 「全然大丈夫」(2008年、藤田容介監督)照男の叔父・浩太郎役
  • 「なくもんか」(2009年、水田伸生監督)中やん役
  • 「大鹿村騒動記」(2011年、阪本順治監督)柴山満役
  • 「そして父になる」(2013年、是枝裕和監督)秋山(病院の職員)役
  • 「ラブ&ピース」(2015年、園子温監督)良一の会社の同僚A役
  • 「海街diary」(2015年、是枝裕和監督) 紺野社長役
  • 「一粒の麦 荻野吟子の生涯」(2019年、山田火砂子監督)山本万年役
  • 「マイスモールランド」(2022年、川和田恵真監督)
  • 「それいけ!ゲートボールさくら組」(2023年、野田孝則監督)臼井玲雄役
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<テレビドラマ>

  • 「天と地と」(1969年、NHK大河ドラマ)長尾景康役
  • 「冬の雲」(木下恵介・人間の歌シリーズ)(1971年、TBSテレビ)谷村俊一役
  • 「太陽の涙」(木下恵介アワー)(1971年、TBSテレビ)及川勉役
  • 「幸福相談」(木下恵介アワー)(1972年、TBSテレビ)新田道夫役
  • 「おやじ山脈」(木下恵介アワー)(1972年、TBSテレビ)愛甲三郎役
  • 「銀座わが町」(1973年~1974年、NHKテレビ)国分恭介役
  • 「ヨイショ」(1974年、TBS放映)
  • 「もうひとつの春」(木下恵介・人間の歌シリーズ)(1975年、TBSテレビ)西久保信一役
  • 「熱中時代」(1978年~1979年、日本テレビ)小嶋田徳次役
  • 「血族」(ドラマ人間模様)(1980年、NHKテレビ)  山口正介役
  • 「元気です!」(1980年~1981年、TBSテレビ)中森良作役
  • 「花へんろ」(1985年~1988年、NHKテレビ)英太郎役
  • 「家なき子」(1994年 – 1995年、日本テレビ)園田 和夫役
  • 「ウルトラマンティガ」(1996年~1997年、TBSテレビ)ヤオ・ナバン博士役
  • 「仮面ライダー555」(2003年、テレビ朝日)教授 / オウルオルフェノク役
  • 「オトコマエ」(2008年、NHK土曜時代劇)坪井喜八郎役
  • 「ママさんバレーでつかまえて」(2009年、NHKテレビ)スーパー吉田社長、山田役
  • 「東野圭吾 幻夜」(2010年~2011年、WOWOW)水原幸夫役
  • 「仮面ライダーウィザード」(2012年、テレビ朝日)園長役
  • 「富士ファミリー」(2016・2017年、NHKテレビ)百合稙道役
  • 「おんな城主 直虎」(2017年、NHK大河ドラマ)熊野屋役
  • 「今度生まれたら」(2022年、NHKプレミアムドラマ) 山賀敏男 役
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結婚歴がすごい!4回の結婚と3回の離婚

ここでは小倉一郎さんの結婚歴を見てみましょう。

1973年、小倉一郎さんは最初の結婚をします。

結婚相手は、TBSドラマ「それそれの秋」で共演した女優の「海野まさみ」さんでした。

小倉一郎さんは、海野まさみさんとは、1973年公開の映画「ときめき」(監督:市村泰一)でも共演しています。

しかし、先ほども述べた通り、結婚したものの、わずか2か月半で離婚してしまいます。

離婚の原因は、結婚してすぐに小倉さんが長期の地方ロケに出かけてしまい、海野さんが寂しさに耐えられずに、実家に戻ってしまったという説がありますが、はっきりとはわかりません。

当時は芸能界史上、最短記録での離婚と言われました。

1977年に小倉一郎さんは2回目の結婚をします。

2回目の結婚相手は一般女性で、モデルクラブのマネジャーをしていた「小倉昌子」さんです。
(奥田瑛二さんのマネージャーだったという説もあります。)

1977年といえば、小倉一郎さんの代表作「俺たちの朝」が放送されていた時期と重なります。

実は、「俺たちの朝」の撮影中に、共演していた森川正太さんが入籍したと聞き、それに刺激されて、小倉さんも当時お付き合いされていた昌子さんと結婚したそうです。

その頃は、ドラマのロケで忙しかったと思いますが、そんな中でも、しっかり人生の伴侶をゲットしていたのですね。さすがです。

この昌子さんとの間には、息子さん1人と娘さん3人の、合計4人の子供さんをもうけます。

その後、妻の昌子さんは、政治活動を始めて、1999年に東村山市議会議員選挙に立候補して当選しています。

2003年に東村山市長選挙に立候補したり(結果は落選)、2004年には、中村敦夫氏が代表を務める「緑の会議」から参議院議員選挙に立候補するなど(結果は落選)活発に政治活動を行っています。

そんな政治活動に熱心な昌子さんとは、すれ違いの生活が生じ、そのことが原因となったようで、1999年、22年続いた結婚生活を解消し、2回目の離婚をしました。

離婚後も小倉一郎さんは、昌子さんの政治活動を応援していたとのことです。

小倉一郎さんは、その7年後、2006年10月に結婚をします。結婚はこれで3回目です。

3回目の結婚相手は、元アイドル歌手の「谷ちえ子」さんでした。谷さんも再婚で、その結婚式は軽井沢で、披露宴も池袋のホテルで盛大に行われたそうです。

「谷ちえ子」さんは、伝説のオーディション番組「スター誕生」出身で、1977年に、「花の女子高数え歌」という曲でデビューしています。

谷さんは、1978年以降、目立った芸能活動を休止していましたが、2012年にシングル「横浜シルエット」をリリース、復帰コンサートを行い、芸能活動を再開しました。

その後、小倉一郎さんは、3年間の別居生活を経て、2015年7月に、谷ちえ子さんと3回目の離婚をしました。

離婚原因は、小倉さんも谷さんも明かしておらず、不明となっています。

小倉一郎さんは2017年に、一般女性の「まき」さんと4回目の結婚をします。

小倉さんは4回目なので、再々々婚、まきさんは再婚でした。

この「まき」さんは、約40年前、小倉一郎さんが若い時にお付き合いをしていた女性です。

お2人は、小倉さんの浮気が原因で別れてしまいましたが、まきさんはいつかヨリを戻そうと思っていたところ、小倉さんが他の女性と結婚してしまったそうです。

それから40年経って、また初恋の女性と知り合い、結婚に至ったとは、お2人の縁がよほど深かったということでしょう。

小倉さんとまきさんが結婚して2年後の2019年に、まきさんが「くも膜下出血」という病気になりましたが、療養の末、現在は元気にされているそうです。

現在は俳句の先生、朗読、歌手でも活躍

「小倉蒼蛙(そうあ)」の俳名で俳句が有名

小倉一郎さんは、ギター演奏や篆刻(てんこく)など多くの趣味をお持ちです。

※篆刻(てんこく):自ら印章(はんこ)を彫ること、及び作った印章を紙に捺して、その印影と印章本体を鑑賞すること

その中でも、「俳句」は先生と呼ばれるほどの腕前です。

俳号もお持ちで、「小倉蒼蛙」(おぐらそうあ)と言います。

「蒼蛙」とは「あおいカエル」のことで、脚本家の早坂暁氏が名前を付けてくれたそうです。

小倉さんは、「俳・俳 小倉一郎句集」や、「小倉一郎の〔ゆるりとたのしむ〕俳句入門」などの俳句の本も出版しています。

本の内容は、教えるという姿勢を取らずに、楽しみながら知識が増え、しかも俳句の基本がしっかりとわかるように書かれた本だと、評判は上々です。

また、以前、NHKテレビの情報番組「ひるまえほっと」の中で、俳句のコーナーを担当していました。

それは、小倉さんが視聴者の方から寄せられた俳句を講評する「ひるまえ俳句茶房」というコーナーでした。

小倉さんは、自身が主宰する俳句教室「毬の会」も開いています。メンバーは約40人だそうです。

「みんなのうた」の作詞・作曲を手がける

小倉一郎さんは、NHKテレビ、「みんなのうた」で放送された楽曲の作詞作曲を手掛けています。

曲は、「ぼくのにっきちょう」という歌で、作詞・作曲:秋山啓之介(小倉一郎さんのペンネーム)、編曲:青木望、歌唱は小倉一郎さんご本人です。

1982年6月に最初の放送があり、1986年10月〜11月、2018年、2019年などに再放送されています。

「フォネオリゾーン」、67歳で歌手デビュー

小倉一郎さんは、2019年に、仲雅美さん、江藤潤さん、三ツ木清隆さんと4人で、「ファネオリゾーン」というユニットを結成して、シングル「クゥタビレモーケ」で歌手デビューしました。

小倉一郎さんが67歳、4人の平均年齢は70歳、全員の年齢の合計は279歳という、元気なシニアのユニットです。

「ファネオリゾーン」は、遥か彼方の惑星、「フォネオリ星」からやってきた宇宙人という設定で、イチロウゾーン(小倉一郎さん)、マサミゾーン(仲雅美さん)、ジュンゾーン(江藤潤さん)、ミッキーゾーン(三ツ木清隆さん)などど、お名前がついています。

「フォネオリゾーン」のユニット結成のきっかけは、小倉一郎さんと仲雅美さん2人が行ったトークライブに、三ツ木清隆さんがゲストで出演、歌を披露したりしているうちに、江藤潤さんもゲストで呼ばれるようになり、4人で何かやろうということになったことだそうです。

小倉一郎さんはじめ、仲雅美さんは映画「愛と誠」、江藤潤さんはドラマ「青春の門」、三ツ木清隆さんは「光速エスパー」など、私が幼いときに、青春ドラマなどで大活躍されていた方々なので、同世代の懐かしいファンには嬉しいユニットだと思いました。

 病気(肺がん)から奇跡の回復後も朗読等で活躍

小倉一郎さんは現在病気で治療中とのことですが、どんな病気なのでしょうか。以下、小倉さんの病気について見てみましょう。

小倉一郎さんは、昨年(2022年)、ドラマの撮影中に足首を骨折し、整形外科に通っているときに、背中の痛みが出て、それが長引き、他の病院で診てもらったところ、「肺がん(ステージ4)」と診断されました。

がんも「ステージ4」の段階になると、抗がん剤などの治療ができない状態で、余命は1~2年位ではないかと言われたそうです。

小倉さんのいとこが、肩の痛みから「肺がん」が発見され、帰らぬ人となったため、「肺がん」と言われたときは、やっぱりそうかという気持ちがあったそうです。

これを聞いた小倉さんの2番目の奥さんとの間にもうけた娘さんたちは、セカンドオピニオンを求めて、他のがん専門病院をいろいろと探したのです。

そして探し当てた「県立がんセンター」という病院で、小倉一郎さんは、改めて診察を受けました。

その結果、がんが転移しており、両方の肺、胸の骨と脳の、合計4か所にがんがあることがわかりました。

しかし、そこの病院の先生は「ステージ4でも大丈夫ですよ、副作用もない、いい薬がありますから大丈夫です」と言って、放射線治療や抗がん剤治療を行ってくれたそうです。

その結果、4か所にあったがんのうち、3か所は無くなり、もう1か所(右肺)は小指の先ほどに小さくなっていたそうです。まさに、奇跡の回復です。

小倉一郎さんは、現在も抗がん剤の治療は継続しているものの、今年は、映画「それいけ!ゲートボールさくら組」に出演されたり、今月8月には朗読劇「太宰治作 畜犬談」に出演予定など、お元気に、仕事も家庭も謳歌していらっしゃいます。

まとめ:小倉一郎は家族を亡くすも天才子役になり、青春ドラマからヤクザ映画まで幅広く演じる名脇役に

以上、小倉一郎さんの若い頃の活躍や結婚歴、現在を見てきました。

これらをまとめますと、

小倉一郎さんは、東京で生まれて、すぐに母親を亡くし、その前に双子の兄も亡くしています。
生まれてすぐに、ご両親の故郷、鹿児島へ移り住みます。

それから親代わりに面倒を見てもらった伯母の都合で、小学1年で上京し、子役のエキストラをやっていたところ、梅宮辰夫さんに、「東映児童演劇研修所」を紹介してもらって入所します。

それ以降は、石原裕次郎さんと映画で共演したり、ウルトラマンシリーズにも出演します。

その後、小倉一郎さんは、高校を中退して、俳優の活動に専念して、活躍します。

主な代表作は、山田太一脚本のドラマ「それぞれの秋」や、市川崑監督の映画「股旅」、青春ドラマの名作「俺たちの朝」、意外なところでは、ヤクザ映画の巨匠、深作欣二監督の映画「仁義なき戦い 頂上作戦」などがあります。

この他にも、映画は125本以上、ドラマは300本以上に出演し、今年芸能生活62年以上というベテラン俳優になりました。

私生活では、離婚3回、結婚4回を繰り返しており、現在は4番目の奥さんの「まきさん」と幸せに暮らしています。

俳優以外でも、俳句の先生や、「みんなのうた」の作詞・作曲を手がけたり、「フォネオリゾーン」というユニットを作って、67歳で歌手デビューもしています。

昨年、肺がん(ステージ4)が見つかり、医師から余命1~2年と宣告されましたが、別のがん専門病院を娘さんたちが探してくれて、「県立がんセンター」で治療を受けて、4つあったがんがほとんど無くなるという、奇跡の回復を遂げました。

そして、現在は生まれ変わった気持ちで、「小倉一郎」から「小倉蒼蛙」と芸名を変えて、映画出演や朗読劇を披露する等、多才な活躍をされています。

昭和時代から令和の現代まで、第一線で活躍し続ける名脇役、小倉一郎さん(小倉蒼蛙さん)を、これからも応援していきたいと思います。

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