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小坂一也の死因は?妻は十朱幸代?若い頃、子供、結婚を解説

小坂一也さんは、昭和から平成の前半にかけて活躍した歌手兼俳優で活躍した方です。

この記事では、小坂一也さんがどんな活躍をした方だったのか、そして死因は何だったのかを明らかにし、解説していきます。

小坂一也とは

ここでは小坂一也さんの経歴や画像、生涯でどんな活躍をされていたのかを大雑把に解説していきます。

小坂一也の経歴

小坂一也さんは、1935年5月30日、愛知県名古屋市で生まれました。

生まれたのは愛知県名古屋市でしたが、幼少期から東京で育ち、小学校から高等学校まで成城学園で教育を受けました。

当時の同級生には、後に第80代内閣総理大臣となる羽田孜氏がおり、親しくしていました。

また、中学時代には小澤征爾氏や松尾勝吾氏(松尾雄治の叔父)などと共にラグビー部に所属し、若くして多彩な人脈を築いていました。

小坂さんは、俳優の津川雅彦氏が創業した、グランパパプロダクションに所属していました。

歌手・俳優の二刀流で活躍

高校在学中から音楽への情熱を持ち、高校中退後、1954年にコロンビアレコードから「ワゴン・マスター」でデビューを果たしました。

「和製プレスリー」の異名を取るほどの歌唱力と表現力で、日本のロックンロール黎明期を牽引する存在となったのです。

そして、小坂一也さんは、1950年代後半から俳優としてのキャリアをスタートさせます。

1957年の映画「星空の街」でデビュー。

当初は歌手としての知名度を活かし、劇中で歌を披露する役が中心でした。

しかし、1958年に松竹と専属契約を結び、木下恵介監督作品「この天の虹」で本格的な演技力を見せることになります。

演技の評価が高まり、その後も数々の映画やテレビドラマに出演します。

1980年代から90年代にかけては渋い中年男性役で存在感を放ち、「マルサの女」(1987年、伊丹十三監督)や「私をスキーに連れてって」(1987年、馬場康夫監督)、「失楽園」(1997年、)など話題作に次々と出演しました。

晩年は食道がんと闘いながらも俳優活動を継続し、その職業人としての姿勢は、多くの後輩俳優たちの模範となっています。

小坂一也の死因と晩年

死因は食道がん

小坂一也さんは、1997年11月1日午前6時10分、東京都中央区にある国立がんセンター中央病院で62歳の生涯を閉じました。

死因は「食道がん」でした。

食道がんとの闘病生活は、1990年代に入ってから本格化していたようです。

最後までがんと闘いながら、現役の俳優・歌手として自らを貫かれました。

小坂一也さんのお墓は、東京都府中市にある多磨霊園にあります。

戒名は「釋一声」で、宗派は浄土真宗です。

晩年の様子

1990年代に入ると、小坂一也さんの姿は次第に痩せ細っていきました。

激痩せが目立つようになり、ついに闘病を公表することになりましたが、それでも俳優・歌手としての活動は継続していました。

映画「仔鹿物語」(1991年)や「キャンプで遭いましょう」(1995年)、「失楽園」(1997年)など、数々の作品に出演し続けました。

1990年には自身の少年期を振り返った回想記「メイド・イン・オキュパイド・ジャパン」を刊行します。

闘病生活を送りながらも、芸能活動への情熱は衰えることがありませんでした。

和製プレスリーとして一世を風靡した歌手から、実力派俳優へと転身を遂げた彼の多彩な才能は、日本の芸能史に深く刻まれているのです。

小坂一也の若い頃

歌手としてデビュー、「和製プレスリー」と呼ばれる

1952年、高校在学中の小坂一也さんは、藤沢恵治氏の誘いを受け、ワゴン・マスターズのボーカルとして音楽活動をスタートさせました。

高校を中退して本格的に音楽の道へ進み、1954年にはコロンビアレコードから「ワゴン・マスター」でデビューを果たしています。

カントリー&ウエスタンやロカビリーの歌手として頭角を現し、その歌唱力とルックスで瞬く間にアイドル的な人気を獲得したのです。

1956年からはエルヴィス・プレスリーの楽曲のカバーに挑戦し、その完成度の高さから「和製プレスリー」という異名で呼ばれるようになりました。

レイモンド服部が訳詞を手掛けた「ハートブレイク・ホテル」は大ヒットを記録し、「青春サイクリング」も1957年にリリースされ、若者たちの心を掴んでいます。

この時期の小坂さんは、NHK紅白歌合戦に3年連続で出場するなど、まさに時代の寵児でした。

特筆すべきは、NHKで初めてロックンロールを歌った歌手として歴史に名を刻んだことで、日本の音楽シーンに大きな影響を与えたパイオニアとして評価されています。

映画俳優として青春映画で活躍

1950年代後半から俳優としてのキャリアをスタートさせた小坂一也さんは、1957年の映画「星空の街」(小田基義監督)でデビュー(主演)します。

デビュー作の「星空の街」と同様に、当初は歌手としての知名度を活かし、劇中で歌を披露する役が中心でした。

しかし、1958年に松竹と専属契約を結び、木下恵介監督作品「この天の虹」(1958年)で本格的な演技力を見せることになります。

その後も小坂さんは、「惜春鳥」(せきしゅんちょう)(1959年、木下惠介監督)や、「春の夢」(1960年、木下惠介監督)など、木下作品に連続で出演しています。

そして、小坂一也さんの演技の評価は次第に高まり、その後も数々の映画やテレビドラマに出演するようになっていきます。

小坂さんは徐々に俳優業の方にウエイトが傾いていき、名脇役として活躍するようになっていったのです。

小坂一也の主なヒット曲、出演作品

小坂一也さんの主なヒット曲、出演作品は以下の通りです。

  • 「ワゴンマスター」(1955年)
  • 「ハートブレイクホテル」(1956年)
  • 「青春サイクリング」(1957年)
  • 「心にしみるブルース」(1958年)
  • 「監獄ロック」(1958年)

 ◆映画

  • 「この天の虹」(1958年、木下惠介監督)稔役
  • 「惜春鳥」(1959年、木下惠介監督) 峰村卓也役
  • 「不連続殺人事件」(1977年、曾根中生監督)巨勢博士役
  • 「ダイヤモンドは傷つかない」(1982年、藤田敏八監督)中山修司役
  • 「私をスキーに連れてって」(1987年、馬場康夫監督)軽金属部の課長(矢野の上司)役
  • 「集団左遷」(1994年、梶間俊一監督)花沢浩平役
  • 「失楽園」(1997年、森田芳光監督)久木の同僚、鈴木役


    ドラマ
  • 「木下惠介劇場・木下惠介アワー」(1965〜1973年、TBS)
  • 「必殺シリーズ」(1972~1980年、朝日放送)
  • 「まんさくの花」(連続テレビ小説、1981年、NHK)鶴岡役
  • 「新・夢千代日記」(1984年、NHK)宇崎一政役
  • 「土曜ワイド劇場」(1977〜1992年、テレビ朝日)
  • 「101回目のプロポーズ」(フジテレビ)矢吹孝夫役
  • 「高校教師」(1993年、TBS)三沢祐蔵役

「ハートブレイクホテル」「青春サイクリング」が大ヒット

小坂一也は1954年にコロンビアレコードから「ワゴン・マスター」でデビューし、カントリー&ウエスタンやロカビリーの第一人者として活躍しました。

代表曲「ハートブレイク・ホテル」は、レイモンド服部による英語からの翻訳で大ヒットを記録。

1956年から1958年までNHK紅白歌合戦に3年連続で出場し、NHKで初めてロックンロールを歌った歌手として音楽史に名を残しています。

アルバムでは「青春サイクリング」「心にしみるブルース」など、アメリカンポップスのカバー曲を多く手がけ、「和製プレスリー」の異名を取るほどの実力を発揮。

1960年代には「エルヴィス・プレスリー・トリビュート」などの企画アルバムも手がけ、日本のロカビリーシーンを牽引しました。

その後も精力的にアルバムをリリースし続け、1970年代には「カントリーロード」「アメリカン・ドリーム」といった企画アルバムで、日本におけるカントリー音楽の普及に貢献します。

晩年まで音楽活動を続け、独自の歌唱スタイルで多くのファンを魅了し続けました。

映画「私をスキーに連れてって」「失楽園」など名脇役として活躍

1950年代後半から俳優としての活動を本格化させた小坂一也さんは、映画やテレビドラマの世界でも存在感を発揮していきました。

1958年に松竹と契約を結んだ後、木下恵介監督作品「この天の虹」で高い評価を獲得。

その後も数々の映画やテレビドラマに出演し、演技力の高さを証明していきます。

映画では、1960年代は、「惜春鳥」や「春の夢」など木下惠介監督作品などに出演。

1970〜1980年代は、「不連続殺人事件」といったミステリー作品や、「ダイヤモンドは傷つかない」、「私をスキーに連れてって」と言った話題の青春映画に上司役などで出演しました。

また、社会現象になるほどの大ヒットを記録した「マルサの女」では、中年男役を演じており、
木下惠介監督作品で、社会派の傑作と言われる「衝動殺人 息子よ」にも出演しました。

1990年代では、「集団左遷」や「失楽園」など、話題の映画に出演しています。

テレビドラマでは、1960年代から1970年代にかけては、「木下惠介劇場・木下惠介アワー」(TBS)や「太陽にほえろ」(日本テレビ)、「必殺」シリーズ(朝日放送)など、話題作に出演し、渋い演技で視聴者を魅了しました。

1980年代は中年役として「新・夢千代日記」(NHK)、「江戸川乱歩の美女シリーズ」(土曜ワイド劇場、テレビ朝日)などの人気作品に登場。

特に刑事役や企業幹部役など、重厚な役柄を得意としていました。

1990年以降は、闘病生活を送りながらも、ドラマ「101回目のプロポーズ」(フジテレビ)や「高校教師」(TBS系列)などに出演。その演技力は衰えることなく、最後まで視聴者を魅了し続けました。

私が小坂一也さんの作品で印象深いのは、「木下惠介劇場・木下惠介アワー」の中の「おやじ太鼓」(1969年)というドラマです。

小坂一也さんは、主役のワンマン社長の運転手役で出演されており、社長さんの家の台所で、ガツガツとご飯を食べる姿が印象的でした。

お手伝いさん役で、若き日の菅井きんさんも出演しており、小坂さんと菅井さんの2人がやり取りするシーンも印象に残っています。

小坂一也の妻・息子・家族・結婚について

小坂一也さんは歌手時代、アイドル的な存在で、ファンも多かったといいます。

女性にもモテモテだったようで、有名女優さんとの恋愛も大きく報じられています。

そんな小坂一也さんの結婚、家族について解説していきます。

十朱幸代と14年間事実婚

小坂一也さんは入籍はしていなかったものの、公になっているパートナーがいました。

それは女優の十朱幸代さんです。

1959年、小坂一也さん24歳、十朱幸代さん17歳の時に、映画「惜春鳥」で共演して、2人は出会い、パートナーとなりました。

ではここで、十朱幸代さんについて解説していきます。

1942年生まれ、東京都出身、父は俳優の十朱久雄氏です。

幼い頃から、「大きくなったら女優になる」と公言していたそうです。

モデルを経て、1958年、NHKの帯ドラマ、「バス通り裏」で女優デビューします。

翌年の1959年映画「惜春鳥」で映画デビューし、小坂一也さんと共演して2人は出会います。

十朱幸代さんは、その後、順調に女優として活動していきます。

ドラマ「ゼロの焦点」(1971年、NHK)で日本放送作家協会女性演技賞受賞、1976年、第2回菊田一夫演劇賞受賞、日本アカデミー賞優秀主演女優賞など、数々の賞を獲得している才能溢れる人気女優さんでした。

小坂一也さんと十朱幸代さんは、俳優、女優という人気商売という仕事柄もあり、形式には囚われたくないと言って、入籍はせずに、長い間事実婚の状態でした。

入籍していないとは言え、夫婦も同然に暮らしてきたのです。

そして、1974年のお正月、諸々の事情で、挙式のみ行いました。(入籍はしなかったそうです。)

しかし、挙式した同じ年に、小坂さんの方から「好きな人ができた」と言って、一方的に結婚生活に終止符を打ちました。

その「好きな人」とは、小坂さんが、ドラマ「阿蘇の女」(1974年、TBS系列)で共演した、松坂慶子さんでした。

松坂慶子と不倫するも別の女性と再婚

小坂一也さんは、十朱幸代さんとの破局後、松坂慶子さんと都内のマンションで同棲を始めます。

ではここで、松坂慶子さんについて解説します。

松坂慶子さんは現在でも活躍されている女優さんで、ご存知の方も多いと思います。

今もお美しいですし、役柄のせいか、おっとりとした優しいイメージが定着しているように思います。

しかし、小坂一也さんと交際していた当時の松坂慶子さんは、シャープな美しさとセクシーさで、日本中の男性を悩殺していたと言っても過言ではなく、「元禄太平記」などの大河ドラマや、「江戸を斬る」などの時代劇など、多くのドラマに出演しており、大変な人気ぶりでした。

松坂慶子さんといえば、どうしても頭に浮かぶのは、私が子供の頃、松坂さんが主演したドラマ「水中花」(1979年、TBS系列)です。

ドラマがヒットし、その主題歌を松坂さん自身が歌って、歌も大ヒットしたことが強く印象に残っています。

ドラマの中で松坂さんがバニーガールの姿を披露していますが、その艶やかさに、女子から見ても美しいと思いました。

松坂さんは他人の夫を奪った悪女だとマスコミに叩かれましたが、小坂さんは、(妻がいる身で)自分から一方的に好きになったとマスコミには説明していました。

しかし、2人の結婚は、松坂慶子さんの父親に猛反対されてしまいます。

松坂さんは、父親から、「男(小坂一也さん)をとるなら勘当する」と言い渡され、悩み抜いた末に、泣く泣く小坂さんとは結婚しないと父親に宣言し、別れることを選択しました。

そのため小坂一也さんは、好き同士であったにも拘らず、松坂慶子さんとは結婚できなかったのです。

そして、松坂さんと別れて2年後の1977年、小坂さんは、21歳年下の元ミス日本でモデルだった女性と再婚しました。

結婚後は男の子が誕生して、平和な家庭生活を送っており、ようやく私生活は安定したのです。

まとめ:小坂一也の死因は食道がん、歌手と俳優の二刀流で活躍した名脇役だった

小坂一也さんは、高校在学中から音楽への情熱を持ち、1954年にコロンビアレコードから「ワゴン・マスター」でデビューを果たしました。

「和製プレスリー」の異名を取るほどの歌唱力と表現力で、日本のロックンロール黎明期を牽引する存在となったのです。

その後、1957年には映画俳優としても活動を開始し、歌手と俳優の二刀流で活躍しました。

木下恵介監督作品への出演を皮切りに、数々の名作に出演し、演技力も高く評価されています。

晩年まで第一線で活躍を続けましたが、1997年11月1日、食道がんにより62歳で生涯を閉じました。

闘病中も芸能界の第一線で活躍し続けた小坂一也さんの生き様は、多くの後輩芸能人たちにも大きな影響を与えたことでしょう。

そして視聴者である私たちも、最後まで情熱を持って活躍した小坂一也さんの存在を忘れることはないでしょう。

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