昭和の失恋ソング15選ー懐かしいヒット曲を紹介
昭和の時代には失恋ソングや別れの曲の名曲が多く誕生しました。
あなたも思い出の失恋ソングを聞いて、当時の記憶が蘇ってきたことがあるのではないでしょうか?
本記事では昭和の懐かしい失恋ソングの中でも特にヒットした名曲を15曲厳選してご紹介します。
懐かしい昭和の失恋ソングを聴きたいという人は、ぜひ本記事の内容を参考にしてください。
もくじ
昭和の失恋ソング 男性歌手編
ここでは、昭和の失恋ソングの中から、男性歌手が歌う6曲を厳選してご紹介します。
- さらば恋人:堺正章(1971年)
- 失恋レストラン:清水健太郎(1976年)
- ルビーの指輪:寺尾聰(1981年)
- そして僕は途方に暮れる:大沢誉志幸(1984年)
- Rainy Blue(レイニー ブルー):徳永英明(1986年)
- Missing :久保田利伸(1986年)
さらば恋人:堺正章(1971年)
「さらば恋人」は、堺正章さんがボーカルを担当していた、グループサウンズのバンド、「ザ・スパイダーズ」が解散した後、ソロ歌手として初めてリリースした曲です。
曲の歌い出しが、「さよならと書いた手紙・・」という歌詞になっていて、すぐに別れの曲、失恋の曲とわかります。
堺正章さんの、軽快でありながら情感のこもった歌声は、悲しくて辛い別れを乗り越えていけそうな希望を感じさせてくれます。
この曲の作詞は、フォークソング界で数々のヒット曲を手がけた北山修、作曲は、大ヒットメーカー、天才作曲家と呼ばれた筒美京平で、売れること間違いなしの曲だったといえます。
堺正章さんはこの曲で、1971年の、「第2回日本歌謡大賞・放送音楽賞」、「第13回日本レコード大賞・大衆賞」を受賞しています。
また同じ年の「第22回NHK紅白歌合戦」に初出場しています。
過去のテレビ番組で、堺正章さんは、「この、「さらば恋人」で、日本レコード大賞を狙っていたが、ライバルが強すぎた」といった内容の発言をしています。
確かに、この曲自体は、とてもいい曲ですし、堺正章さんの歌唱も素晴らしかったので、十分に「日本レコード大賞」を狙えたかと思いますが、同じ年の1971年に発売された「また逢う日まで」(作詞:阿久悠、作曲:筒美京平、歌唱:尾崎紀世彦)が大ヒットし、日本レコード大賞を受賞していますので、これには適わなかったということでした。
私は幼い頃、この「さらば恋人」をリアルタイムで聴いていましたが、歌詞の内容はほとんど理解できませんでした。
ただ、歌の最後の一節である「悪いのは僕の方さ、君じゃない」という歌詞が、女の人をかばっていて、男らしくてかっこいいなと思った記憶があります。
失恋レストラン:清水健太郎(1976年)
「失恋レストラン」は、1976年11月に発売された清水健太郎さんのデビュー曲です。
この曲は、清水健太郎さんがレギュラー出演していた、若者向けの素人参加型情報バラエティ番組(生放送)「ぎんざNOW」(TBS、1972~1979年)から生まれました。
作詞・作曲は、同番組にゲスト出演していた「つのだひろ」(現、つのだ☆ひろ)さです。
当時、アイドル的なルックスの清水さんが、ギターをかき鳴らし、切ないムードたっぷりに歌うこの歌は、女性ファンだけでなく、日本中の人の心を掴んで、発売翌年の1977年には、オリコンシングルチャートで1位を獲得するなど、大ヒットしました。
そして、この曲は、1977年の第19回日本レコード大賞最優秀新人賞、第8回日本歌謡大賞放送音楽新人賞・第10回日本有線大賞最優秀新人賞など、その年の新人賞を総なめにしました。
また同年の、第28回NHK紅白歌合戦にも出場しました。
この「失恋レストラン」が流行した当時を思い出しますと、とにかく、街のいたる所で、この歌が流れていて、歌唱していた清水健太郎さんも大変な人気者で、テレビや雑誌など、見ない日がないくらいだったと記憶しています。
ルビーの指輪:寺尾聰(1981年)
「ルビーの指輪」は、石原裕次郎さんが率いる「石原プロ」の一員として活躍していた、俳優の寺尾聰さんが、俳優業の一方で、音楽活動をしていた時に、6枚目のシングルとして発売されました。
作詞は、ポップス界の大ヒットメーカー、松本隆氏、作曲は寺尾聰さん自身が手掛けました。
この曲が出来上がった時に、寺尾聰さんは、石原裕次郎さんと、石原プロの当時の専務、小林さんに曲を聴いてもらったそうです。
小林専務の感想は、「こんなお経みたいな曲が売れる訳ない」という、よくない反応でした。
確かにこの曲はあまり抑揚がなく、同じようなメロディが淡々と流れていくような印象の曲です。
しかし、石原裕次郎さんの感想は「いいんじゃない」という事だったので、レコード化されることになったそうです。
1981年2月に発売されて、その年の3月にはオリコンシングルチャート1位を獲得。
10週連続1位を獲得と同時に、1981年オリコン年間1位も獲得しています。
そして同年12月には160万枚を売り上げるという、稀にみる大ヒット曲となりました。
1981年当時、人気があった音楽番組「ザ・ベストテン」(TBS系列)では、この曲が12週連続1位を獲得して、同番組の最長記録となりました。
また、「ザ・ベストテン」のランキングで、寺尾聰さんの曲が3曲も10位以内に同時にランクインされるなど、異例の記録づくしでした。(「ルビーの指輪」、「SHADOW CITY」、「出航 SASURAI」の3曲)
私は「ザ・ベストテン」が好きで毎週見ていましたが、1981年は、毎週のように寺尾聰さんが出演して、「ルビーの指輪」を歌っていた印象があります。
他の音楽番組にも、毎週のように寺尾さんが出演して「ルビーの指輪」を歌っていて、毎日のようにテレビからこの歌が流れていました。
とにかく1981年のほぼ1年間は、世の中が「ルビーの指輪」一色になっていて、寺尾聰さんの本業が俳優である事を忘れてしまうほどでした。
「ルビーの指輪」は1981年の「第23回日本レコード大賞」、日本レコード大賞の部門賞である、「金賞・作詞賞・作曲賞・編曲賞」を受賞しています。
その他にも、同年の「第14回全日本有線放送大賞上半期グランプリ」、「FNS歌謡祭大賞」、「日本テレビ音楽祭グランプリ」、「第12回日本歌謡大賞」を受賞して、音楽賞を総なめにしました。
もちろん、同じ年の「第32回NHK紅白歌合戦」にも初出場しています。
ちなみに、石原プロの小林専務が「お経みたいな曲」と言っていたことを先に述べましたが、この「お経みたいな曲」が大ヒットした前例があります。
1961年に発売された「川は流れる」という曲です。(作詞:横井弘、作曲:桜田誠一、歌唱:仲宗根美樹)
歌い手の仲宗根美樹さんは、この歌を初めて聴いた時に、「まるでお経のような曲だけど、売れるのかしら?」と思ったそうです。
この曲は元々、シングルのB面曲だったものですが、歌声喫茶等で人気が出て、この曲をA面にしてレコードを再発売したところ、100万枚以上を売り上げる、当時では異例の大ヒット曲となりました。
そして僕は途方に暮れる:大沢誉志幸(1984年)
「そして僕は途方に暮れる」は、作詞:銀色夏生、作曲:大沢誉志幸、歌唱:大沢誉志幸で、大沢誉志幸(おおさわよしゆき)さんの5枚目のシングルです。
大沢誉志幸さんは、中森明菜、沢田研二、吉川晃司などのアイドルやポップスのミュージシャンに楽曲提供をしていた作曲家、音楽プロデューサーとして活躍していました。
ヴォーカリストとしても活躍しており、80年代の男性ボーカリストを代表する1人とも言われています。
この曲は、元々「凍てついたラリー」という曲が原曲となっており、その曲と、銀色夏生さんが歌詞だけ書き上げていた「そして僕は途方にくれる」を合体させて、歌詞と曲を手直ししながら生み出された曲です。
オリコンチャート最高6位にランクイン、累計28.2枚の売り上げで、大沢誉志幸さんを代表する曲となりました。
この曲は歌詞が変わった言葉の言い回しをしています。
ひとつ残らず君を
悲しませないものを
君の世界のすべてにすればいい
そして僕は途方にくれる
この独特な歌詞、そこから生まれる独特の世界観、それを見事に生かして、大沢誉志幸さんは曲を書き、またそれを見事に表現した歌唱は、今の時代に聴いても、その輝きは色褪せません。
この曲の内容で、いいなと思うところは、男性を1人部屋に置いて出て行った彼女を、その男性は否定しないで、逆に応援しているようなところがカッコいいですね。
しかし、カッコよく応援してみたものの、結局フラれた男性は、途方に暮れているというのが、人間味があっていいなと思います。
私がこの曲を知ったのは、「日清カップヌードル」のCMソングとして、テレビから流れていた時です。
この歌を聴いた時、「おしゃれで雰囲気のある、いい歌だなあ」と思いました。
個人的には、昭和時代、特に80年代の輝きを象徴するような歌として、今でも大好きな歌の1つです。
Rainy Blue(レイニー ブルー):徳永英明(1986年)
「Rainy Blue」(レイニー ブルー)は、作詞:大木誠、作曲:徳永英明、歌唱:徳永英明で、徳永英明さんのデビューシングルです。
この「Rainy Blue」(レイニー ブルー)には、こんなエピソードがあります。
ミュージシャン志望だった徳永英明さんは、専門学校を中退して上京、アルバイトをしながら、プロのミュージシャンを目指していました。
ある日、音楽の友人に「デビューする話があるから、軽井沢で合宿しよう」と誘われます。
東京のアルバイトを辞めて、喜び勇んで軽井沢に行った徳永さんでしたが、合宿の話は嘘で、喫茶店の店員を集めるための口実でした。
仕方なく軽井沢で喫茶店の店員をしていた徳永さん、その軽井沢で、同じ志を持った大木誠さんと知り合い、毎晩のように一緒に曲作りをするようになります。
そんな中で生まれたのが、この「Rainy Blue」(レイニー ブルー)という曲だったそうです。
2人の若者の音楽への情熱が、この失恋の名曲を生み出したのですね。
この曲は、レコード売上はあまり伸びませんでしたが、着うたやカラオケなどで大人気の曲で、この令和の世にも歌い継がれる、徳永英明さんを代表する1曲となりました。
この「レイニーブルー」が発売された当時、私は、この曲を歌っている徳永英明さんがカッコ良すぎて、それに目を奪われて、このしっとりとした素敵なバラードの曲が、あまり耳に入ってきませんでした。(当時、俳優さんとしても活躍されていました。)
後になってから、この曲が素敵な曲だということに気がついたという、若気の至りを思い出す1曲です。
Missing :久保田利伸(1986年)
この「Missing」の作詞・作曲・歌唱は久保田利伸さんです。
久保田利伸さんは、シンガーソングライターとして活動するとともに、田原俊彦や小泉今日子、鈴木雅之など多くのアーティストに楽曲を提供し、音楽プロデューサーとしても活躍していました。
この曲は、久保田利伸さんのファーストアルバムの「SHAKE IT PARADISE」に収録された後に、シングルカットされた曲です。
久保田利伸さんの代表曲の1つとされています。
中西保志、中島美嘉、ATSUSHIなど、多くのアーティストが、この曲をカバーしており、いかにこの曲が名曲であるかがわかります。
昭和時代の曲ですが、今聴いても、その魅力が色褪せない素敵な曲ですね。
このことは数字でも証明されています。
この「Missing」が初めてリリースされた、約30年後の2016年5月度において、日本レコード協会(日本のレコード会社で組織される業界団体)リリースにおける、フル配信でのダウンロード件数が、何と、75万件(プラチナ)と認定されたそうです。
1980年代の楽曲がフル配信で75万ダウンロード以上を達成したのは、この「Missing」と、プリンセス プリンセスの「M」の2つだけだそうです。(偶然にもタイトルが「M」で始まっていますね。)
ちなみに、この曲が流行った当時、私は久保田利伸さんがバラードを歌っていることが意外でした。
久保田利伸さんといえば、ブラックミュージックやR&Bを歌うシンガーソングライターというイメージがあったからです。
そんなミュージシャンの人が、こんなに透明感のある繊細で綺麗な曲が作れることに、すごいなあと驚いたことを思い出しました。
昭和の失恋ソング 女性歌手編
ここでは、昭和の失恋ソングの中から、女性歌手が歌っている9曲を厳選してご紹介します。
- サン・トワ・マミー:越路吹雪(1964年)
- 木綿のハンカチーフ:太田裕美(1975年)
- なごり雪:イルカ(1975年)
- かもめはかもめ:研ナオコ(1978年)
- 恋人よ:五輪真弓(1980年)
- 待つわ:あみん(1982年)
- 悲しみが止まらない:杏里(1983年)
- 瞳はダイヤモンド:松田聖子(1983年)
- 難破船:中森明菜(1987年)
サン・トワ・マミー:越路吹雪(1964年)
「サン・トワ・マミー」はイタリア生まれのベルギーの歌手、サルヴァトール・アダモ(日本では「雪が降る」という曲でお馴染み)が作詞・作曲・歌唱の曲です。
この曲を、作詞家、岩谷時子が詞を日本語に訳して、さらに女性目線の内容にしたものを、越路吹雪さんが歌唱してヒットしました。
タイトルの「サン・トワ・マミー」とは、フランス語で、「恋人よ、君なしでは」という意味で、または「私には恋がなくなった」という意味だという説もあるそうです。
サルヴァトール・アダモが歌ったのは、若い男性が失恋した歌でしたが、日本では女性が失恋した大人の恋の歌に変わっており、その大人の雰囲気を越路吹雪さんがムードいっぱいに歌っているところが素敵な曲です。
越路吹雪さんは、この曲で、1964年に行われた第15回NHK紅白歌合戦に出場しており、越路吹雪さんの代表曲の1つとして有名です。
日本では、越路吹雪さんの他に、多くの歌手がカバーしており、特に、忌野清志郎さんがカバーしたものが知られています。
私は子供の頃に、越路吹雪さんがテレビで歌っているのを見たことがあります。
歌詞の内容はわかりませんでしたが、メロディがロマンチックでいいなあと思いました。
しかし、失恋の歌であることは、大人になってから知りました。
木綿のハンカチーフ:太田裕美(1975年)
「木綿のハンカチーフ」は作詞:松本隆、作曲:筒美京平、歌唱:太田裕美で、太田裕美さんの4枚目のシングルとして発売された曲です。
この曲は、1970年代前半に活躍した伝説のロックバンド「はっぴいえんど」のメンバーだった、松本隆氏が作詞家に転身したばかりの頃に作られた曲です。
歌詞の構成が、男性と女性が交互に出てくる、今までにない構成で、当初は、歌詞が出来上がり、作曲家の筒美京平氏に渡したところ、歌詞が長すぎて、「こんな歌詞では曲がつけられない」と、一旦は匙を投げたそうです。
しかし、作詞の松本氏に連絡がつかないため、結局、そのままの歌詞に曲をつけたところ、とてもいい曲ができたと、筒美氏が喜んだというエピソードが伝えられています。
累計売上枚数は、86.7万枚以上と言われており、太田裕美さんの最大のヒット曲となりました。
またこの曲で太田裕美さんは、1976年に行われた第27回NHK紅白歌合戦に出場しています。
私が子供の頃、この歌が大ヒットしていて、当時、デパートに木綿のハンカチーフを買いに来る若い女性が殺到している、といった内容のニュースが流れたのを覚えています。
また、太田裕美さんのA3くらいの大きさのブロマイドみたいなものがあって、それを子供の頃に大事に持っていた記憶もあります。
なごり雪:イルカ(1975年)
「なごり雪」(なごりゆき)は作詞・作曲:伊勢正三、歌唱:かぐや姫の楽曲です。
当時、大変人気があったフォークソングバンドのかぐや姫が「三階建の詩」というアルバムにこの曲を収録して発売し、オリコンアルバムチャート1位を獲得するなど、ヒットしました。
しかし、最も世に知られているのは、翌年の1975年にイルカさんがカバーし、シングル盤として発売された「なごり雪」ではないでしょうか。
イルカさんは、この曲を作った伊勢正三さんと同じ音楽事務所に所属しており、シングルとしては未発表だったこの「なごり雪」を、シングルとして歌わないかとオファーが来たそうです。
この話を進めたのは、イルカさんの夫で、プロデューサー兼マネージャーの神部和夫氏でした。
この「なごり雪」がイルカさんにピッタリであることを、神部さんはわかっていたんですね。
イルカさんは、最初、自分がこの名曲のシングルを歌うという大役を任せられることに躊躇したものの、作詞・作曲を手がけた伊勢さんの後押しがあり、歌うことを決めたそうです。
この「なごり雪」は、徐々にヒットして、ロングヒットとなり、イルカさんの代表曲となりました。
また、多くのミュージシャンにカバーされて、この令和の世でも名曲として歌い継がれています。
私はこの曲がヒットした当時、イルカさんは、「雨の物語」や「サラダの国から来た娘」など、シンガーソングライターのイメージがあったので、イルカさんが作った曲だと思い込んでいました。
イルカさん自身が作ったものであるかのような、あるいは、それ以上に完璧にこの歌を歌いこなしているのが凄いと思いました。
かもめはかもめ:研ナオコ(1978年)
「かもめはかもめ」は、作詞・作曲が中島みゆきさん、歌唱が研ナオコさんです。
この曲は、研ナオコさんの、1977年に発売されたアルバム「かもめのように」(1977年)から、翌年の1978年にシングルカットされたものです。
中島みゆきさんは、「失恋ソングの女王」と呼ばれるほど、数々の失恋の曲を書いていますが、「かもめはかもめ」は、それらの曲の中でもおしゃれな印象で、研ナオコさんの歌声は、曲の世界へと聴く者を確実に誘ってくれています。
この曲は、1978年に行われた第20回日本レコード大賞金賞や、日本歌謡大賞放送音楽賞を受賞をしています。
また、「第29回NHK紅白歌合戦」(1978年)には、この曲で、2年ぶり2回目の出場を果たしています。
ちなみに、研ナオコさんと、中島みゆきさんが作った曲とは相性がいいようです。
中島みゆきさんの世界を、研ナオコさんが抜群の歌唱力で、上手に表現できるからでしょう。
以前も、研ナオコさんが中島みゆきさんに依頼して、「あばよ」(1976年)という曲を提供してもらったところ、大ヒットとして、第18回日本レコード大賞歌唱賞(1976年)など数々の賞を獲得し、研ナオコさんの代表曲となったエピソードがあります。
その後もお二人のコンビは、ヒットを続けて、気がつけば、研ナオコさんは、中島みゆきさんが作詞・作曲した楽曲を15曲も提供されています。
研ナオコさんと中島みゆきさんは、お互いに尊敬しあっているそうで、研ナオコさんは、「私が中島みゆきを歌えなくなるときは死ぬとき」と公言しているほど、固い絆で結ばれているそうです。
恋人よ:五輪真弓(1980年)
この「恋人よ」は、作詞・作曲・歌唱:五輪真弓さんで、五輪真弓さんの18枚目のシングルです。
五輪真弓さんについては、以下の記事で詳しく紹介していますので、参考にしてください。
この曲は、1980年、五輪真弓さんがデビューした頃に、五輪さんの音楽プロデューサーだった木田高介氏が、交通事故で突然亡くなってしまい、その葬儀に出た事がきっかけとなり、作られた曲だそうです。
五輪さんが、その木田氏の葬儀に参列した際、木田氏の奥様が、激しく嘆き、泣き叫ぶ様子を見て、葬儀の帰り道にこの曲の歌詞が浮かんだといいます。
(木田氏は、享年31歳という若さだったので、奥様が嘆き悲しむのも無理はありません。)
二度と会う事が叶わない「別れ」を表現したこの曲は、五輪真弓さんがレコーディングした際、あまりの出来の良さから、当初シングルB面の曲の予定だったところを変更して、A面の曲として発売されました。
「恋人よ」は、オリコン週間チャート1位を獲得、TBSテレビ系歌番組「ザ・ベストテン」でも1位を獲得し、累計売上は100枚を突破し、五輪真弓さんの代表曲となりました。
第22回(1980年)日本レコード大賞金賞、第9回FNS歌謡祭最優秀歌唱賞などを受賞しています。
また、五輪真弓さんは、この曲で第31回(1980年)NHK紅白歌合戦に初出場しています。
「恋人よ」は、日本での大ヒットに留まらず、韓国や中国、シンガポール、マレーシア、香港などのアジアの国々でも人気になりました。
私はこの歌を聞いた時、五輪真弓さんの歌唱力、豊かな表現力がとにかく凄いと思いました。
歌を聴いているだけで、まるで映画のワンシーンを観てるかのような感動を覚えました。
大人になった今では、より一層、この名曲が心に染みます。
待つわ:あみん(1982年)
「待つわ」は、作詞・作曲:岡村孝子、歌唱:あみんの楽曲です。
「あみん」は、当時名古屋市にある、椙山(すぎやま)女子大学に在学していた、岡村孝子さんと加藤晴子さん2人の女子大生デュオでした。
ポップスやフォークソングなどの、才能ある新人発掘のコンテストであった、第23回(1982年)ヤマハポピュラーソングコンテスト(ポプコン)で、あみんはこの曲でグランプリを獲得しました。
ポプコンでグランプリになると、プロデビューが約束されていたので、あみんも、この「待つわ」でプロデビューを果たします。
この「待つわ」は発売されるや否や、オリコンチャート、週間1位と年間売上1位も獲得して、累計120万枚を売り上げる大ヒット曲となりました。
そして、デビューしたわずか5か月後に、あみんは、1982年の大晦日、NHK紅白歌合戦にも初出場しています。
この曲が流行っていた当時、日本中でこの「待つわ」の歌が流れて、毎日のようにこの歌がテレビやラジオから流れていたのを覚えています。
私は当時、この「あみん」の2人のハーモニーがとてもきれいで、片思いの女性の切ない気持ちがよく伝わってきて、自分と重ね合わせながら、応援したくなる気持ちで聴いていました。
父親がこの曲を聴いて「女の人からずっと待つわなんて言われたら、男としては嬉しい」なんてことを言っていたので、「ふーん、男の人はそう捉えるのか」と思いました。
悲しみが止まらない:杏里(1983年)
「悲しみが止まらない」は、作詞:康珍化、作曲:林哲司、歌唱:杏里で、杏里さんの14枚目のシングルです。
曲の内容は、友人に恋人を略奪されてしまった女性の歌で、かなり悲惨な内容だと思いますが、メロディがアップテンポで、明るくオシャレなので、陰気な感じは全くしないのがいいですね。
1980年代のポップスは、悲惨な失恋の歌でされ、オシャレに表現していて、ノリノリの曲になってしまうところが凄いと思います。
この曲は、オリコンチャート週間4位を獲得、TBS系歌番組「ザ・ベストテン」で最高4位を獲得するなどヒットして、杏里さんの代表曲の1つとなりました。
この「悲しみが止まらない」は、2008年に、稲垣潤一&小柳ゆきのデュエットでカバーシングルが発売されるなど、長年に渡り愛される、失恋ソングの定番曲となっています。
私が初めてこの曲を聴いた時は、オシャレな感じで、明るい感じがするけれども、恋人を奪われた後悔や悲しみが伝わってきて、杏里さんがよく歌詞を理解して、うまく歌っているなと思いました。
そして、歌の中の失恋した女性を、歌っている杏里さんをイメージして聴いていました。
例えるなら、杏里さんのようなオシャレでキレイな人でも、フラれることもあるんだな、
まだ彼氏がいない若い頃の私は、この曲を聴いて、恋愛とは複雑なものだと思ったのでした。
瞳はダイアモンド:松田聖子(1983年)
「瞳はダイアモンド」は、「赤いスイートピー」や「小麦色のマーメイド」などの名曲を手がけた黄金コンビ、作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂(松任谷由実)が作った楽曲で、松田聖子さんが歌唱しています。(松田聖子さん、15枚目のシングル)
歌い出しが「映画色の街・・」となっていて、松本隆さんの独特の詩の世界が広がっていきます。
さらに、イントロ的なところ、歌いはじめの前のところで、「愛してたって 言わないで」という歌詞があり、この曲のテーマそのものだなと感じさせます。
松田聖子さんにとって、初めての本格的な失恋ソングだったそうです。
作詞者、作曲者、そして歌手共々、超一流が揃って、この曲が出来上がっているので、もう名曲にならない訳がないと思います。
この曲はオリコンシングルチャート1位獲得、TBS系歌番組「ザ・ベストテン」、日本テレビ系列歌番組「ザ・トップテン」でともに第1位を獲得しています。(売上枚数は約57万枚)
この歌を初めて聴いた時には、聖子ちゃんが失恋の歌を歌うのは珍しい、しかも、恋人の浮気が原因で失恋なんてと、ちょっと意外に思いながら聴いていました。(本格的な失恋ソングは初めてだから、当然ですが。)
しかし、この歌の女の子は失恋に悲しみながらも、とてもキレイに表現されていて、きっとこの恋を乗り越えて、もっとキレイになって、ステキな人と出会えそうだな、という希望も感じることができました。
失恋の歌でさえ、こんなに素敵に歌える松田聖子さんは、本当に凄い歌手です。
アイドルの中のアイドルと言われる理由もよくわかりますね。
難破船:中森明菜(1987年)
「難破船」(なんぱせん)は、1984年に発売された加藤登紀子さんの曲ですが、その3年後の1987年に中森明菜さんがカバーして、自身の19枚目のシングルとして出された曲です。
作詞・作曲は加藤登紀子さんによるもので、加藤登紀子さんが歌っていたのですが、加藤登紀子さんが、この曲が中森明菜さんの雰囲気に合っていたという事で、ぜひ、歌って欲しいと、加藤さんから中森さんに楽曲提供されました。
加藤登紀子さんの狙い通りに、中森明菜さんは、自身の低音の声の魅力を存分に生かして、カバー曲とは思えないほど、完璧にこの曲を歌いこなし、中森明菜さんを代表する1曲となりました。
「難破船」はオリコンシングルチャートで1位を獲得し、当時、大人気の音楽番組「ザ・ベストテン」(TBS系列)では、5週連続1位を獲得するなど大ヒットとなりました。
また、第29回(1987年)日本レコード大賞特別大衆賞、第16回(1987年)FNS歌謡祭最優秀歌唱賞など、数々の賞を獲得し、中森明菜さんは、第38回(1987年)NHK紅白歌合戦にもこの曲で出場しています。
私は、リアルタイムでこの曲を聴いていましたが、中森明菜さんのために作った曲だと思うほど、あまりにも中森さんの雰囲気にピッタリでした。
そして、あまりにも完璧に歌っているせいか、この歌の世界である、失恋の切なさや元彼を忘れられない悲しさが滲み出ていて、ちょっと気持ちが重たくなる感じがした事を覚えています。
しかし、今、年齢を重ねてからこの歌を聴くと、切なさや淋しささえも味わい深くて、中森明菜さんの芸術的とも言える歌の上手さに、あれから30年以上経った今でも、歌姫と慕われ続けることに納得しているのでした。
まとめ:昭和の失恋ソングには懐かしい名曲がいっぱいある
これまで昭和時代の失恋ソングを紹介してきました。
大ヒット曲あり、今でもよく知られている名曲あり、最近ではあまり知られていない曲もあったかもしれません。
今回紹介した失恋ソングを、年代別にまとめてみました。
◆1960年代の失恋ソング
- サン・トワ・マミー:越路吹雪(1964年)
◆1970年代の失恋ソング
- さらば恋人:堺正章(1971年)
- 木綿のハンカチーフ:太田裕美(1975年)
- なごり雪:イルカ(1975年)
- 失恋レストラン:清水健太郎(1976年)
- かもめはかもめ:研ナオコ(1978年)
◆1980年代の失恋ソング
- 恋人よ:五輪真弓(1980年)
- ルビーの指輪:寺尾聰(1981年)
- 待つわ:あみん(1982年)
- 悲しみが止まらない:杏里(1983年)
- 瞳はダイアモンド:松田聖子(1983年)
- そして僕は途方に暮れる:大沢誉志幸(1984年)
- Rainy Blue(レイニー ブルー):徳永英明(1986年)
- Missing :久保田利伸(1986年)
- 難破船:中森明菜(1987年)
こうしてまとめてみますと、80年代の曲が多くを占めており、80年代には、ポップスをはじめとする数々の名曲が生まれたことがわかります。
現在でも、80年代のポップスに人気があることも頷けますね。
昭和の失恋ソングは懐かしくて名曲ばかりが揃っていますので、その世界にゆっくりと浸ってみてはいかがでしょうか。