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八千草薫の死因は?宮本武蔵、岸辺のアルバムで有名、若い頃、旦那、子供、遺産を解説

昭和、平成、令和、3つの時代に活躍した名女優、「八千草薫」さん。

「八千草薫さんが亡くなった原因って何だったんだろう…」「闘病生活はどんな様子だったのかな…」と気になっている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

多くの人に愛された八千草薫さんの最期について正しく知ることで、改めてその生き方や人柄に思いを馳せるきっかけになるはずです。

この記事では、八千草薫さんの死因や闘病の経緯を中心にそのプライベートや人柄についても詳しく解説しています。

八千草薫とは

ここでは、八千草薫さんとはどういう女優さんだったのか、経歴や若い頃などを詳しく解説していきます。

八千草薫の経歴

八千草薫さん(本名:谷口瞳)は、1931年1月6日に大阪で生まれました。

身長は154㎝(公称)、血液型はO型です。

幼少期に父を亡くし、母と二人の家庭で育った八千草さんは、大阪・六甲の自然豊かな環境のなかで感受性を磨いていきました。

引っ込み思案だった少女が、近所に住むモダンな女性から「フランス女優のダニエル・ダリューに似ている」と言われたことをきっかけに、映画の世界に心を惹かれるようになったというエピソードは印象的でしょう。

聖泉高等女学校(現:プール学院中学校・高等学校)在学中に宝塚音楽学校に合格して入学します。

1947年、宝塚歌劇団に入団し、美しい清純派の娘役として活躍をされています。

また、宝塚に在団中から、映画にも積極的に出演し、「宮本武蔵」シリーズ(1954〜1956年、三船敏郎主演)では、ヒロインお通役で出演して、大人気となり、同年の日伊合作映画「蝶々夫人」に主演し、国際的にも高い評価を受け、彼女の名を不動のものにしています。

1957年に宝塚歌劇団を退団。

退団後は映画会社の東宝と契約して、映画に本格的に進出し、その後はテレビドラマ等でも活躍。

大河ドラマ「花の生涯」、「独眼竜政宗」、「岸辺のアルバム」、「阿修羅のごとく」、数々の名作に出演し、NHK放送文化賞(1991年)、紫綬褒章(1997年)、旭日小綬章(2003年)、第40回日本アカデミー賞会長功労賞(2017年)など数々の賞を受賞。

病気療養に専念するまで、息の長い女優活動を続けて、昭和、平成、令和の三時代に渡り活躍した、稀有な女優さんとなりました。

また、八千草薫さんは、趣味が山歩きで、自然を大切にしたい想いが強く、自然環境保全審議会委員を務めるといった側面もありました。

八千草薫の若い頃

八千草薫さんの女優としてのスタートは、1947年に宝塚歌劇団に入団したことです。

入団後は娘役となり、「源氏物語」で若紫を演じて人気になります。

それ以降、八千草薫さんは、清楚で透明感のある容姿と繊細な演技力で「宝塚のお姫様」と呼ばれるほどの人気を得ていました。

何かと男役スターが注目される宝塚で、八千草さんは、娘役の概念をひっくり返すほどの人気ぶりで、娘役として一時代を築く活躍をされています。

また、宝塚歌劇団に所属しながら、外部の映画などでも積極的に出演して、活動しています。

宝塚に在団中から、映画にも積極的に出演し、1951年に「宝塚夫人」で映画デビューします。

その後は、「宮本武蔵」シリーズ(1954〜1956年、三船敏郎主演)では、ヒロインお通役で出演して、大人気となります。

また1954年、日伊合作映画「蝶々夫人」に主演し、国際的にも高い評価を受け、彼女の名を不動のものにしています。

この頃、八千草さんは、お嫁さんにしたい女優No.1と言われていました。

1957年に宝塚歌劇団を退団した後は、映画「ガス人間第1号」(1960年、本多猪四郎監督)、「男はつらいよ」(1972年、山田洋次監督)のマドンナ役、大河ドラマ「花の生涯」、「銭形平次」など、映画、テレビドラマにひっきりなしに出演していきました。

八千草薫の死因と病気について


ここでは、八千草薫さんがどのような闘病生活を送り、どのように最期を迎えたのか、八千草薫さんの死因、病気について詳しく解説していきます。

八千草薫の死因は膵臓がん

八千草薫さんは、2019年10月24日午前7時45分に、東京都内の病院で、この世を去りました。(享年88歳)

八千草薫さんの死因は、膵臓(すいぞう)がんです。

膵臓がんは、日本国内において5年生存率が約10%前後とされる極めて厳しい病気です。

臓器の位置が体の奥深くにあるため、早期発見が非常に難しく、見つかった時点で進行しているケースが少なくありません。

八千草さんの場合も、手術後わずか1年足らずで再発が確認されており、この病気の恐ろしさを改めて痛感させられます。

八千草薫さんは、亡くなる直前まで、比較的病状は落ち着いていました。

しかし、10月2日、肺に水がたまり、痛みを訴えて入院します。

病室ではお元気な様子で、愛犬のヴェルディに会うため、3日ほど帰宅することもありました。

亡くなる前日(23日)には、八千草さんが「病院の食事は美味しくないから、美味しいものが食べたい」と要望したところ、お手伝いの人が、まつたけご飯と茶わん蒸しを用意してくれて、喜んで食べていらしたそうです。

亡くなる24日当日も、約2時間前まで、意識はしっかりしていたそうで、午前6時ごろに看護師が朝の検診で病室へいくと、「特に変わったことはないわ」などといった会話が交わされていました。

しかしその後、しばらくして容体が急変し、7時45分に亡くなられたそうです。

告別式は、10月28日、ご本人の遺志に従い、近親者が集まり内輪の式が執り行われました。

また、ご本人の希望により、お別れの会等も開かれませんでした。

八千草薫の闘病生活

八千草薫さんは2017年春に乳がんが発見されて、そこからがん闘病生活が始まりました。

当初は病を伏せて仕事を続けていましたが、2018年1月に膵臓にもがんが発見され、手術を受けます。

術後の経過は良好で、舞台「黄昏」の主演やドラマ出演などで活躍しましたが、2019年2月に肝臓に転移していることがわかり、「がん」であることを公表します。

八千草さんはテレビ朝日系列のドラマ「やすらぎの刻~道」に出演が決まっていましたが、降板して治療に専念することにしました。

八千草さんは療養に専念して、再び女優の仕事に復帰することを目指していましたが、その思いは叶いませんでした。

八千草薫の主な出演作品

ここでは、八千草薫さんの主な出演作品について解説します。

◆映画

  • 「旅はそよ風」(1953年、稲垣浩監督):お銀さま役
  • 「蝶々夫人」(1954年、日伊合作映画):蝶々夫人役
  • 「宮本武蔵」シリーズ(1954〜1956年、稲垣浩監督):お通役
  • 「乱菊物語」(1956年、谷口千吉監督):陽炎役
  • 「ガス人間第一号」(1960年、本多猪四郎・円谷英二監督):藤千代役
  • 「男はつらいよ 寅次郎夢枕」(1972年、山田洋次監督):志村千代役
  • 「不毛地帯」(1976年、山本薩夫監督):壱岐佳子役
  • 「ハチ公物語」(1987年、神山征二郎監督): 上野静子役
  • 「阿修羅のごとく」(2003年、森田芳光監督):竹沢ふじ役
  • 「しゃべれども しゃべれども」(2007年、平山秀幸監督):外山春子役
  • 「ディア・ドクター」(2009年、西川美和監督): 鳥飼かづ子役 
  • 「くじけないで」(2013年、深川栄洋監督): 柴田トヨ役
  • 「ゆずりはの頃」(2015年、中みね子監督):小河市子役

◆テレビドラマ

  • 「三四郎」(1961年、NHK)
  • 大河ドラマ「花の生涯」(1963年、NHK):昌子の方役
  • 「娘たちはいま」(1967〜1968、TBS):青木万里子役
  • 大河ドラマ「独眼竜政宗」(1987年、NHK):北政所(ねね)役
  • 「うちのホンカン(1975〜1981年、HBS(東芝日曜劇場)):河西さち役
  • 「岸辺のアルバム」(1977年、TBS):田島則子役
  • 「ちょっとマイウェイ」(1979〜1980年、日本テレビ):浅井朋子 役
  • 「阿修羅のごとく」(1979年、NHK):里見巻子役
  • 「わたしの可愛いひと」(1986年、フジテレビ)沢島頼子 役
  • 「シャツの店」(1986年、NHK):磯島由子役
  • 「お玉・幸三夫婦です」(1994年、日本テレビ):音無玉子役
  • 「女の言い分」(1994年、TBS):東愛役
  • 「文書鑑定人 白鳥あやめの事件ファイル」(2002年、テレビ東京他):白鳥あやめ役
  • 「やすらぎの郷」(2017年、テレビ朝日):九条摂子役
  • 「執事西園寺の名推理」(2018年、テレビ東京):伊集院百合子役
  • 「やすらぎの刻〜道」(2019〜2020年、テレビ朝日):九条摂子役

◆舞台

  • 「分福茶釜」(1951年、帝国劇場):小ダヌキ役(宝塚、花組)
  • 「源氏物語」 (1952年、宝塚大劇場):若紫役(宝塚、花組)
  • 「がしんたれ 青春篇」(1960年、芸術座)
  • 「細雪」・「女系家族」・「華岡青洲の妻」(複数回出演)
  • 「黄昏」(2003年、2006年、2018年):エセル・セイアー 役(主演)

映画「宮本武蔵」でのお通役で人気を博す

八千草薫さんが人気女優として認知されたのは、三船敏郎主演の映画「宮本武蔵」(1954〜1956年、稲垣浩監督)という作品です。

八千草さんは、主役の武蔵を慕う女性、「お通」という役柄を演じました。

この「宮本武蔵」は3部作となっており、主役の武蔵の成長ぶりが描かれていますが、八千草薫さんは3作品とも「お通」の役で出演しています。

この「宮本武蔵」(1954年)は、配収、1年間で約1億6300万円以上の配収を得て、配収のランキング7位となった人気作品で、アメリカの、第28回アカデミー賞、名誉外国語映画賞を受賞し、海外からも注目される作品となりました。

この「宮本武蔵」でのお通を演じた八千草さん、とても美しくて、キュート、そして凛とした雰囲気が素敵です。

この記事を書くまでは、お若い時の八千草薫さんを知らなかったので、こんなに美しかったんだと驚いてしまいました。

ドラマ「岸辺のアルバム」に主演

八千草薫さんが出演した作品で、私が最も印象深いのは、「岸辺のアルバム」(1977年、TBS)です。

このドラマは、日本を代表する脚本家、山田太一氏が書いた作品です。

山田太一氏といえば、「ふぞろいの林檎たち」や「男たちの旅路」、「高原にいらっしゃい」といった名作を次々と書いています。

このドラマで八千草薫さんは、主人公の専業主婦、則子を演じています。

子供の頃、リアルタイムで観ていましたが、良妻賢母の普通の主婦が浮気をしたり、大学生の娘が乱暴されたりと、衝撃的な内容で、途中で観るのを躊躇しました。

また、ドラマの内容で、子供では意味のわからないことも多々あって、観たり観なかったりして全体の半分くらいを観ていました。

ただ、最終回の、洪水で自宅が流されてしまい、河原に家の屋根だけが残されたのを発見して、家族全員が屋根の上に座り込んでいる姿が印象に残っていました。

今回、この記事を書くにあたって、もう一度改めてこのドラマを初めから最終回まで観ました。

当時、専業主婦が浮気をするなんて、結構大胆なことだったと思いますが、八千草薫さんが演じることで、いやらしさがないと言いますか、主人公に嫌悪感を感じないのがいいですね。

これは八千草薫さんという女優さんの力だと思いました。

当時、不倫という言葉はまだなかった、ということも思い出されます。

(「不倫」という言葉が定着したのは、ドラマ「金曜日の妻たちへ」(1983年、TBS)の放送がきっかけでした。)

杉浦直樹さんが演じる夫の謙作が、仕事のストレスから妻にキツくあたったり、邪険にしたりするシーンはとても嫌だなと思いました。

子供の頃はそんなことは感じなかったのに、大人の目線で観ることで、感じるようになりました。

また、このドラマに出ている俳優さんは、脇役の人ですら主役級の人が出ていて、豪華俳優陣による、名作ドラマだったんだと、今更ながら気がつきました。

主人公である主婦の、浮気相手役は竹脇無我、息子、繁の高校の担任役は津川雅彦、夫の部下役は村野武範・沢田雅美、繁のガールフレンド役は風吹ジュン、などなど皆さんの演技が素晴らしかったです。

そして、やはり主人公の主婦則子を演じた八千草薫さんの演技がピカイチで、ドラマ自体は衝撃的な内容ですが、それをふわっと包み込んで、見る側を守ってくれているように思いました。

この作品で、八千草薫さんは、「テレビ大賞主演女優賞」を受賞しています。

この他にも、沢山のドラマに出演しており(主役級の役柄が多い)、その柔らかな美しい笑顔で、お茶の間の私たちを包んでくださいました。

晩年の作品で印象に残っているのは、「執事西園寺の名推理」(2018年、テレビ東京)です。

見ているだけで癒される、可愛らしいマダム役は、八千草薫さんならではの、味のある、観る人を安心させ、納得させてくれる演技でした。


八千草薫の旦那、子供、遺産について

ここでは、八千草薫さんの旦那さんや子供などの家族や、世田谷の豪邸などの遺産について解説していきます。

八千草薫の夫は谷口千吉監督


八千草薫さんの夫は、映画監督の谷口千吉さんです。

ここで、谷口千吉さんについて簡単に解説します。

谷口千吉さん(1912年〜2007年)は、現東京都墨田区出身、早稲田大学文学部を中退し、1933年に東宝の前身であるP.C.Lに入社します。

入社して、山本嘉次郎監督などの下で、助監督を務めましたが、同期には本多猪四郎監督などがいて、本多監督や黒澤明監督とも親しい友人でした。

1947年に、映画「銀嶺の果て」で監督としてデビューします。

この映画は、世界的俳優、三船敏郎のデビュー作であり、登山を趣味としていた谷口監督ならではの表現で、北アルプスでのロケを行い、第21回キネマ旬報ベスト・テン第7位になるなど、高い評価を受けました。

この他に、「ジャコ万と鉄」(1949年)、「暁の脱走」(1950年)などの作品が有名です。

谷口監督は、無類の登山好きで、大学時代から登山に熱中していました。

その熱中ぶりは、谷口監督自身、日本山岳会の会員だった程です。

そんな谷口千吉監督と八千草薫さんとの出会いは、谷口監督の映画「乱菊物語」などの作品で一緒に仕事をしたことがきっかけだと言われています。

八千草薫さんと谷口千吉さんの交際は、親族や関係者など、周囲から反対を受けたそうです。

それは、谷口千吉さんが八千草さんより19歳年上で、当時すでに2回の離婚歴があったからです。

特に八千草薫さんのお母さんは、女手一つで育て上げた一人娘の将来を案じて、強く反対していました。

しかし、八千草薫さんは、谷口さんの映画に対する情熱や人間性に強く惹かれていて、周囲の反対には屈せずに、1957年、八千草薫さんと谷口千吉さんは結婚しました。

結婚後は、谷口さんが95歳で他界するまで、おしどり夫婦として、50年以上仲睦まじく連れ添いました。

お二人は谷口さんの趣味である登山が共通の趣味となり、二人で一緒にあちこちの山を登り歩き、自然環境保護などにも造詣が深かったそうです。

八千草さんは、結婚生活について、晩年のインタビューで、穏やかでとても幸せな生活だったと語っています。

八千草薫に子供はいない?

結論から言いますと、八千草薫さんと谷口千吉さんの間には、子供はいませんでした。

八千草薫さんは、結婚したのは1回だけでしたので、他の人との間にも子供はいません。

八千草薫さんと夫の谷口千吉さんには、子供はいませんでしたが、犬などのペットを飼っており、ご夫婦と愛犬等と仲睦まじく穏やかに暮らしていたそうです。

また、愛犬(犬種はシェットランドシープドック、名前はヴェルディ)をとても可愛がっており、亡くなる直前まで、ご自分でお世話をしていたそうで、自宅近所で、八千草さんが犬の散歩をしている姿がよく目撃されていました。

八千草薫の遺産、豪邸はどうなった?

八千草薫さんの遺産、特に豪邸はどうなったのかという疑問をよく耳にしますが、それはどうなったのでしょうか?

八千草薫さんの自宅は東京都世田谷区の高台にありました。

その自宅は、約150坪の敷地があり、モダンな外観の家で、山小屋風のリビングルームなど、素敵なお宅だったと言います。

そのお宅の庭には、大きなケヤキの木や、桜や金木犀、大きな池もあり、土地だけでも3億円の資産価値がある豪邸だったと言います。

八千草薫さんにとっては、夫の谷口さんとペットと幸せに暮らした、愛着のあるご自宅で、谷口さんが亡くなった後も、庭先で、ビオトープ造りに励むなど、お庭を大切にして、手入れに力を注いでいました。

八千草薫さんは、2019年にがんであることを公表した時に、余命数年と医者に宣告されたため、旦那さんとの思い出が詰まった大事な自宅、特に丹精込めた庭をそのまま残したいとの思いで、家を現状のまま買い取ってくれる人を探したり、世田谷区に公園として残せないか相談したりなど、奔走したと言います。

自宅や庭を寄贈する方法を模索していた八千草さんは、30回以上遺言を書き直したそうです。

そして最終的には、八千草さんが亡くなる時に、家の管理や身の回りの世話をしてくれていた、八千草さんと旦那さんの遠縁の親戚の方2人と、八千草さんの所属事務所の社長さんがその遺産(豪邸)を相続することになりました。

八千草薫さんの死後も、遺産を託された3人の方で、家をそのままの形で残せないか模索していましたが、2500万円以上と言われた相続税の支払い期限が迫っていました。

結局、期限内に税金を支払うために、不動産屋に相談し、売却することになりました。

家を相続した3人の方は、売却益から税金を支払い、残った現金を3等分したそうです。

八千草さんは生前、自宅をそのまま残して個人の方に買ってもらいたい、という希望を話していたそうですが、その希望を叶えることができず、相続人の1人である事務所の社長さんは、とても心苦しいと話していたそうです。

この八千草さんの豪邸が、止むに止まれぬ事情で売られた話を聞いて、2024年12月に亡くなられた、女優、中山美穂さんの相続問題の話を思い出しました。

中山美穂さんには約20億円の財産があり、息子さんが相続する予定でしたが、11億円という多額の相続税を現金で期限内に支払うことが障壁になって、息子さんは遺産放棄をしたということがありました。

中山美穂さんの心情を思えば、一生懸命に働いて稼いで遺したお金を、愛する息子さんが受け取れなかったことで、きっと天国で悔しい思いをされていたのではないかとお察しします。

何だか、理不尽というか、やりきれない話だなと思いました。

そして、八千草薫さんが遺したもう1つのもの、そうです、家族だったペットのワンちゃん「ヴェルディ」は、どうなったのでしょうか?

「ヴェルディ」は、幸いにも良い方に引き取られて、新しい飼い主とともに、札幌で元気に暮らしているそうです。

この点に関しては、天国の八千草さんも、きっと安心されたでしょう。

まとめ:八千草薫の死因は膵臓がん、昭和から令和の時代まで第一線で活躍した名女優だった

これまで、八千草薫さんの死因を中心に解説してきました。

以下でまとめますと、

八千草薫さんは大阪で生まれ、父親を早くに亡くし、母子家庭で育ちました。

小さい頃から映画の華やかな世界に憧れて、女優のヴィヴィアン・リーが大好きだった少女は、宝塚歌劇団に入団し、女優としてスタートします。

周囲からは、その明るくて気さくな性格から「ヒトミちゃん」という愛称で呼ばれて親しまれていました。(ヒトミは本名から呼ばれていた)

そして映画、ドラマ、舞台にと大活躍、昭和から平成、令和と三時代を通して第一線で活躍した稀有な女優となりました。

その八千草薫さんは、2019年10月24日、膵臓(すいぞう)がんのため88歳でこの世を去りました。

2017年に乳がんが見つかり手術を受けたものの、翌年には膵臓がんが発覚し、最期まで穏やかに闘病生活を送ったとされています。

突然の訃報に驚きや悲しみを感じた方も多いでしょう。

しかし、八千草薫さんが最期まで自分らしさを失わず、周囲への感謝を忘れなかった姿勢は、多くの人の心に深く刻まれています。

長年にわたり数々の作品で愛され続けた八千草薫さんの功績は、決して色あせることがありません。

その柔らかな笑顔と凛とした佇まいは、世代を超えて語り継がれていくはずです。

画面越しに観る八千草薫さんは、いつも穏やかで品のある、ふわっとしたイメージの方でしたが、

この記事を書くにあたって、八千草薫さんの生き方に触れて、こんなにも女優として真っ直ぐに、そして人としてチャーミングに生きた方はいないなあと思い、以前より増して、八千草薫さんのファンになりました。
(ファンという言い方が、いかにも昭和っぽいですが・・・)

あなたも、八千草薫さんが遺してくれた作品の数々をあらためて振り返りながら、その生き方に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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