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中谷一郎の死因は?「風車の弥七」で有名、若い頃、妻、家族を解説

中谷一郎さんと言えば、水戸黄門の「風車の弥七」を思い浮かべる方が多いと思いますが、それだけではなく、多くの映画、ドラマに出演しています。

そんな中谷一郎さんの死因や若い頃、家族を中心に解説していきます。

中谷一郎とは

中谷一郎さんとはどんな俳優だったのでしょうか。

その経歴と足跡を簡単に辿っていきます。

中谷一郎の経歴

中谷一郎さん(本名:中村正昭)は、1930年10月15日、北海道札幌市に生まれました。

身長は174cm、血液型はAB型です。

学歴ですが、北海道でもトップクラスの進学校、北海道立札幌第一高等学校(現・北海道札幌南高等学校)を卒業後、早稲田大学文学部仏文科に入学します。

しかし、在学中に演劇の道を志し、大学を中退して、1955年に劇団俳優座養成所の四期生としてとして入所し、芸の研鑽を積みました。

同期には仲代達矢や佐藤允、佐藤慶、宇津井健といった、後の日本映画界を代表する実力派俳優たちが名を連ねていました。

1955年、舞台「森は生きている」で俳優デビューを果たし、同年には映画「浮草日記」で銀幕デビューも果たしています。

その後、1959年の岡本喜八監督作品「独立愚連隊」で注目を集め、「用心棒」「切腹」「日本のいちばん長い日」など数々の名作映画で印象的な脇役を演じました。

特に岡本喜八監督との相性は抜群で、コメディから時代劇まで幅広いジャンルで実力を発揮し、監督からの厚い信頼を得ていました。

「水戸黄門」風車の弥七で有名

中谷一郎さんは、テレビドラマ界に大きな足跡を残した名優として知られています。

特に1969年から30年以上にわたって演じた「水戸黄門」(TBS系列)の風車の弥七役は、元忍者で義賊という魅力的な設定で、お茶の間の人気を集め、この「水戸黄門」は、中谷さん自身の代表作となりました。

その出演回数は実に687回に及び、弥七のクールかつ温かみのある演技と、黄門様への忠義を貫く姿は、多くの視聴者の心に深く刻まれることになったのです。

弥七役以外にも、中谷さんは数々のテレビドラマで印象的な脇役を演じ上げました。

その演技の幅広さは、時にはコミカルに、時には重厚に、そして時には人情味あふれる役柄まで、あらゆる要求に応えられる実力の持ち主でした。

特筆すべきは、どんな役でも中谷さん独特の存在感を失わず、しかも作品全体のバランスを崩すことなく、脇役として絶妙な演技を披露し続けたことでしょう。

1993年に大腸がんを患ってからも、入退院を繰り返しながら撮影をこなし、プロフェッショナルとしての意地を見せ続けました。

最後まで役者としての矜持を持ち続けた中谷の姿勢は、後進の俳優たちにも大きな影響を与えています。

2000年の「水戸黄門」第28部をもって降板するまで、その演技力は衰えを知らず、日本のテレビドラマ史に確かな足跡を残したのです。

中谷一郎の死因は?

中谷一郎さんの死因については、長年の間にさまざまな憶測が飛び交いましたが、実際はなんだったのでしょうか。

ここでは中谷一郎さんの死因や晩年について解説していきます。

中谷一郎の死因は「咽頭がん」

俳優の中谷一郎さんは2004年4月1日午前9時42分、東京都豊島区の癌研究会附属病院で、「咽頭がん」により73歳で永眠しました。

1993年に大腸がんの手術を受けて以来、糖尿病との闘病生活を続けながら、俳優としての活動も精力的に行っていました。

しかし、2003年の暮れに「咽頭がん」の転移が発見され、2004年1月から入院生活に入ることになりました。

医師から手術を勧められたものの、本人の意思で放射線治療を選択したといいます。

最期は、妻で俳優座の女優でもある美苗さんに見守られながら、静かに息を引き取ったそうです。

生前、中谷さんは病気の完治を信じ、「完全に治るまで誰にも会わない」と決意を固めていたとのこと。

また、脚本執筆を始めていた妻の美苗さんに対して、「僕が死んでも書き続けてほしい」と遺言を残していました。

中谷さんの訃報は、亡くなった当日に開催されていた俳優座の劇団総会で伝えられ、多くの関係者に衝撃を与えました。

なお、葬儀・告別式は4月5日に、東京都目黒区の帝都典礼碑文谷会館で執り行われ、喪主は妻の美苗さんが務めました。

また葬儀では、2代目佐々木助三郎及び5代目水戸黄門役の里見浩太朗さんが弔辞を読みました。

中谷一郎の晩年について

中谷一郎さんは、1993年に大腸がんの手術を受け、その後も糖尿病との闘病生活を続けていました。

健康面での不安を抱えながらも、「水戸黄門」での風車の弥七役を熱演し続け、入退院を繰り返しながら687回もの出演を重ねたことは、彼の強靭な精神力と役者魂を物語っています。

確かにこの時期は、「水戸黄門」において、風車の弥七の出番がかなり少なくなっていましたので、何だか寂しかったですね。

そんな中で、風車の弥七が時々出演していて、たまたまその回のドラマを観られたときは、子供心に嬉しく思ったものです。

2003年末には咽頭がんの転移が発覚し、2004年1月からは東京都豊島区の癌研究会附属病院で入院生活を送ることになりました。

医師からの手術の提案に対して「手術はしなくていい」と自ら決断し、放射線治療を選択したのです。

最期まで回復への希望を持ち続け、「病気が完全に治るまで誰にも会わない」と決意を固めていたことからも、演じることへの執着が伝わってきます。

俳優としての活動に支障が出始めた2000年の「水戸黄門」第28部を最後に出演を終え、そして2004年4月1日、73歳で生涯を閉じました。

中谷一郎の若い頃について

ここでは中谷一郎さんの若い頃の活躍について解説します。

大学を中退して俳優の道へ、俳優座に入団

北海道札幌市に生まれた中谷一郎さんは、高校を卒業後、早稲田大学文学部仏文科に進学・在籍していましたが、演劇への情熱を抑えきれず中退。

その後、新劇の俳優を目指して、劇団俳優座養成所の四期生として演技の道を歩み始めます。

同期には仲代達矢や佐藤允、佐藤慶といった実力派俳優たちがおり、切磋琢磨しながら演技力を磨いていきました。

1955年、舞台「森は生きている」で俳優デビューを果たし、同年には俳優座ユニット作品「浮草日記」(山本薩夫監督)に朝田役で出演して、映画界にも進出しました。

俳優座での厳しい訓練と実践を経て、中谷さんは日本を代表する実力派の脇役俳優として確固たる地位を築き始めていました。

岡本喜八監督に見出される

中谷一郎さんに転機が訪れたのは、1959年の岡本喜八監督作品「独立愚連隊」への出演でした。

その存在感溢れる演技は業界の注目を集め、黒澤明監督の「用心棒」や小林正樹監督の「切腹」など、日本映画黄金期を代表する作品に次々と起用されていきます。

特筆すべきは岡本喜八監督との信頼関係で、コメディから時代劇まで幅広い役柄を任され、その期待に見事に応えました。

私生活でも、岡本監督の敷地にある別棟に、長年下宿していたほどで、岡本監督とその家族との絆は強く、長年続いたそうです。

中谷一郎の主な出演作品

中谷一郎さんの主な出演作品は以下の通りです。

映画

  • 「独立愚連隊」(1959年、岡本喜八監督)石井軍曹役
  • 「用心棒」(1961年、黒澤明監督)斬られる凶状持役
  • 「切腹」(1962年、小林正樹監督)矢崎隼人役
  • 「ああ爆弾」(1964年、岡本喜八監督)矢東彌三郎役
  • 「大菩薩峠」(1966年、岡本喜八監督)宇津木文之丞役
  • 「日本のいちばん長い日」(1967年、岡本喜八監督)黒田大尉役
  • 「金環蝕」(1975年、山本薩夫監督)斎藤荘造(幹事長)役
  • 「日本の熱い日々 謀殺・下山事件」(1981年、熊井啓監督)遠山部長役
  • 「大誘拐 RAINBOW KIDS」(1991年、岡本喜八監督)テレビ和歌山社長役

◆テレビドラマ

  • 「ゴメスの名はゴメス」(1967年、フジテレビ系列)魯奇刑事役
  • 「水戸黄門」(1969年〜2003年、TBS系列)風車の弥七役
  • 「助け人走る」(必殺シリーズ)(1973〜1974年、朝日放送・TBS系列)辻平内役
  • 「新幹線公安官」(1977~1978年、テレビ朝日系列)乾信三役

映画での活躍

1955年に俳優座に入団した中谷一郎は、1959年の映画「独立愚連隊」で岡本喜八監督に見出され、その演技力を高く評価されました。

存在感のある独特な演技スタイルと、時に威圧的でありながらも少年のような無邪気な笑顔を併せ持つ個性的な魅力で、多くの作品に重用されることになります。

特筆すべきは黒澤明監督の「用心棒」、小林正樹監督の「切腹」、岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」など、日本映画史に名を残す作品での印象的な脇役としての活躍でした。

岡本喜八監督との相性は抜群で、コメディから時代劇、戦争映画まで幅広いジャンルで起用され、その都度異なる表情を見せることに成功しています。

「独立愚連隊」シリーズでは、体格の良さと豪快な演技で曹長役を熱演し、スタッフからの信頼も厚かったと言われています。

ロケ現場では気さくな人柄で知られ、共演者やスタッフとの和やかな関係性を築きながら、プロフェッショナルな姿勢で撮影に臨んでいました。

テレビドラマ・声優での活躍

中谷一郎さんは、テレビドラマ界に大きな足跡を残した名優として知られています。

特に1969年から30年以上にわたって演じた「水戸黄門」の風車の弥七役は、元忍者で義賊という魅力的な設定で、お茶の間の人気を集めました。

その出演回数は実に687回に及び、弥七の愛嬌のある演技と、黄門様への忠義を貫く姿は、多くの視聴者の心に深く刻まれることになったのです。

中谷さんが「水戸黄門」に出演するきっかけは、俳優座の先輩であり、水戸黄門として主役を演じた、東野英治郎さんに誘われたからでした。

そんなこともあり、中谷さんは、東野英治郎さんが黄門様の役を引退する際に、自身も風車の弥七役を降板すると番組プロデューサーに申し出たそうです。

しかし、番組プロデューサーから、「中谷さんが降りるなら、水戸黄門の番組自体を終わらせる」と言って、強く引き止められて、弥七役を続投することになったというエピソードがあります。

私はこれを知って、番組プロデューサーに「よくぞ引き止めてくれました」とお礼が言いたい気持ちになりました。

もし、「水戸黄門」に風車の弥七がいなかったら、寂しいというかつまらなかったと思います。

視聴者なら誰でも私と同じ気持ちになるのではと思うほど、中谷一郎さんが演じる「風車の弥七」は、番組になくてはならない存在になる程、ハマり役となったのです。

弥七役以外にも、中谷は数々のテレビドラマで印象的な脇役を演じ上げました。

その演技の幅広さは、時にはコミカルに、時には重厚に、そして時には人情味あふれる役柄まで、あらゆる要求に応えられる実力の持ち主でした。

特筆すべきは、どんな役でも中谷独特の存在感を失わず、しかも作品全体のバランスを崩すことなく、脇役として絶妙な演技を披露し続けたことでしょう。

1993年に大腸がんを患ってからも、入退院を繰り返しながら撮影をこなし、プロフェッショナルとしての意地を見せ続けました。

最後まで役者としての矜持を持ち続けた中谷の姿勢は、後進の俳優たちにも大きな影響を与えています。

2000年の「水戸黄門」第28部をもって降板するまで、その演技力は衰えを知らず、日本のテレビドラマ史に確かな足跡を残したのです。

ドラマ以外でも、映画「OK牧場の決斗」などのカーク・ダグラスの声や、米ドラマ「ライフルマン」のチャック・コナーズの吹き替えを担当しています。

中谷一郎の妻、家族、エピソードについて

ここでは中谷一郎さんの妻や家族、私生活、エピソードについて解説していきます。

妻・子供・兄弟について

中谷一郎さんは、6人兄弟の長男で、実家は美容院を営んでいました。

お姉さんは小児科の医師で、弟さんは、小樽市で大型商業施設を運営する、(株)小樽ベイシティ開発の社長を務めていた中村憲正さんです。

中谷一郎さんの妻は、「美苗」(みなえ)さんで、俳優座に所属する女優さんです。

美苗さんは、1954年生まれ、東京都出身で、1976年に劇団俳優座に入団しています。

中谷さんとは、24歳も年齢が離れていますが、仲の良いご夫婦だったそうです。

美苗さんは、中谷さんが亡くなる直前に、中谷さんと、脚本の執筆を続けていくと約束されましたが、美苗さんはその約束を見事に果たして、「心の止まり」という戯曲を完成させ、2010年に俳優座で上演されています。

美苗さんは、現在も劇団俳優座に所属して、女優・脚本家として活動されています。

子供についてですが、中谷さんと美苗さんとの間には、子供さんはいませんでした。
  

うっかり八兵衛、高橋元太郎とのエピソード

中谷一郎さんと、ドラマ「水戸黄門」で、弥七同様、なくてはならないキャラクターだった「うっかり八兵衛」を演じた高橋元太郎さんとのエピソードがあります。

「水戸黄門」の中では、「風車の弥七」と「うっかり八兵衛」は親分、子分の間柄でしたが、プライベートでも高橋元太郎さんは、中谷一郎さんを、師匠あるいは兄のように慕っていたそうです。

中谷さんのことを俳優として、一個人、友人として尊敬していたのですね。

中谷さんが大腸がんを患い、手術することになったとき、その当日、高橋さんは病院の駐車場に車を停めて、その中でひたすら手術の成功を祈っていたと言います。

手術が無事に終わったことを、中谷さんの姪御さんが伝えに来てくれた時に、思わず涙が出たそうです。

高橋さんが中谷さんの存在を、とても大切にしていたことがわかるエピソードですね。

その後、中谷さんは咽頭がんを患い亡くなりましたが、皮肉なことに、高橋さんも中谷さんが亡くなった4年後の2008年に前立腺がんを患います。

しかし高橋さんの場合は、早期発見だったので、初期のがんで、転移もなかったと言います。

そのため、手術で根治できる状態だったので、高橋さんは手術することを選択して、その結果がんを克服します。

そして、高橋さんはお元気になられて、現在も活躍されています。

まとめ:「風車の弥七」で有名な中谷一郎の死因は咽頭がんだった

これまで中谷一郎さんについて解説してきました。

これまでの内容をまとめますと、

中谷一郎さんは、名門である早稲田大学文学部仏文科に入学するも、演劇に魅了されて、大学を中退し、劇団俳優座養成所に入所、その後も俳優座の屋台骨として、劇団を支えていきました。

映画では、岡本喜八監督に見出され、「独立愚連隊」など、数々の岡本作品に出演しています。

ドラマでは、俳優座の先輩である東野英治郎さんに誘われて、「水戸黄門」のレギュラーとして参加、その役柄である「風車の弥七」が大人気となり、国民的な俳優になります。

演技派の脇役として活躍していた中谷一郎さんですが、1993年「大腸がん」を患い、それ以降、病と闘いながら、「水戸黄門」などの作品で活躍します。

しかし、2003年に「咽頭がん」を患い、2004年4月1日に東京都豊島区の癌研究会附属病院で永眠されました。(享年73歳)

私の子供時代、「風車の弥七」は、危機が迫ったここぞという時、必ず助けに来てくれる、最高のヒーローでした。

「風車の弥七」とともに、中谷一郎という俳優が、多くの人々の心の中に、ヒーローとして、これからも存在し続けることでしょう。

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